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“福島に生きる”二つの大震災体験して・・元日赤看護婦 石川クニさん(96)

関東大震災と東日本大震災を体験した石川クニさん=二本松市
関東大震災と東日本大震災を体験した石川クニさん=二本松市

 福島県二本松市に住む石川クニさん(96)は、関東大震災と東日本大震災の二つの大震災を体験しています。

 2011年3月11日、東日本大震災が起きた時、石川さんは勝手口から居間に入ろうとした時でした。「夫の遺影額が落下し、ガラスが散乱、神棚のダルマが窓の方まで飛ばされ、しばらく立ちすくんでいました」

 そして、「3歳の時に体験した関東大震災の記憶がまざまざとよみがえってきた」と語ります。

 1923年9月1日。マグニチュード7・9の烈震が東京など関東地方を襲った関東大震災。当時、クニさんの父親は、東京下谷区金杉下町(現在の台東区三ノ輪1丁目)で畳店を営んでいました。

■父に背負われて

 「みんなでソーメンを食べる準備をしていたとき」でした。

 「母が『クニ!』と叫んだ声がして、地面にたたきつけられるように転がりました。ここから先はもう何もわからない。気が付いた時、父に抱えられていました」

 畳床は燃えさかり、ぼうぜんと見つめる父の手にクニさんは両手でしがみついていました。

 石川一家は、上野の山をめざして逃げました。父に背負われたクニさん。

 母の話で、おぼろげに覚えていることは、母が1斗(約18リットル)缶のぬるま湯で、クニさんの真っ黒な体を洗ってくれたこと、屋台店でのスイトンや、焼きトウモロコシ、バラック建ての避難所など・・。

 胃潰瘍で入院した父は、4歳のときに亡くなりました。クニさんが看護婦を志したのは、臨終が迫っていた父が見舞いに来たクニさんに何かを語りかけようとしていたことです。「その視線とあい、いつもの父のまなざしがやきつきました。命を救う医師か看護婦になろう」と思ったのです。

 高等小学校卒業後、東京看護婦学校にすすみ、さらに東京助産女学校に学び卒業しました。

 38年4月、看護婦免許交付。43年、日本赤十字の臨時救護看護婦の募集があり、3ヵ月間の短期養成で「日赤の一員となりました」。

 派遣を命じられたのは、現在の東京都新宿区にあった陸軍事医学校付属病院。「この夜亦(また)大空襲の休みなく 消火甲斐(かい)なく死傷者の山」。そして終戦。「母と妹疎開せしめて天に祈り 天をうらみて戦い終わる」。8月15日に詠んだうたです。

■故郷に根下ろし

 8月30日、亡くなった父の故郷、福島県安達郡油井村(現二本松市)に行きました。「それから70年。福島に生きたのです」

 亡き父の故郷に根を下ろし、保健婦や養護教員などを務めました。

 関東大震災と東日本大震災との違いは何か。クニさんは言います。「原発事故の放射能被害があるかないか。決定的に違う。人災です」

 養護教員の経験から二つのことを国に要望するクニさん。「健康についての医学的検査を毎年続けて徹底して行うこと。もう一つは、放射能について学校の教科書に科学的に書き、子どもにしっかりと身につけさせてほしい。地球をもっと大切にしなければならないからです」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2015年1月19日より転載)

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