戦争の知らぬ世代の政治家よ平和憲法変えてはならぬ
福島県郡山市に住む森ヒロノさん(77)の詠んだ短歌です。憲法を守り生かす郡山共同センターの代表です。
森さんは、日本の侵略戦争が終わったとき国民学校の2年生でした。当時、郡山市には中島飛行機に接収された日東紡績の工場がありました。終戦間際の激しい空襲。模擬原爆が投下されたといわれます。校庭にあった防空壕(ごう)に逃げ込む日々でした。
空いた校庭には豆、イモなどが植えられ畑になりました。校舎のガラスは割れたまま。冬でもガラスは入れられずに教室には雪が吹き込みました。
戦争は終わったものの食糧難。栄養失調とシラミに悩まされました。先生が学校の裏に牛を飼い、絞った牛乳を生徒に飲ませてくれて命をつなぎました。
シラミ対策は、米占領事にDDT(殺虫剤)を頭からかけられました。
■人生最大の転機
苦労人です。中学校卒業後、鉄工場で旋盤工として働きました。夜間高校を卒業。市役所に就職できました。
60年安保闘争の時代でした。「アンポハンタイ、岸倒せ」と、郡山市内でのデモ行進に参加しました。「激動の時代でした。ものの見方、考え方など政治、経済、哲学など必死に勉強しました」
震災に石垣ゆれし里山の寺鐘の音もなく年は明けたり
鵯(ひよどり)も椋鳥(むくどり)も寄らぬ柿あわれ放射能の怖さ知りてか
人生最大の転機に直面したのが東京電力福島第1原発事故でした。
「原発即時ゼロ、再稼働反対のたたかいは、私が平和と人権のためにたたかってきた人生の集大成にしたい」。そう心に刻みました。
「3・11からの3年9ヵ月は、水の確保、学習、署名と「生きることへのだたかいだった」と振り返ります。
放射能は、「色も形も臭いもなく襲ってくる魔物のようだ」と考える森さん。「生存権を守る憲法。原発ゼロのたたかいの武器は憲法です」と思っています。
奥羽山脈と阿武隈高地にはさまれた盆地の郡山市。「原発事故は、当初は『浜通りの問題』と思われていたふしがあります」と言います。
福島県全体に放射能が飛散していることが分かり市民もプレッシャーを強くしました。空気も、水も、食べ物も安心して使えない状況が続いています。
「遠くから取り寄せています。郡山の水は、猪苗代湖から来ています。わが家も2年間はペットボトルの水を使っていました。原発さえなければ、こんなに苦しむことはなかったと思います」
■福島の声を聞け
鹿児島県の川内(せんだい)原発の再稼働に向けた動きなど、「福島のことなどなかったことにしたい」という国の思惑に怒る森さん。「安倍首相は福島の声を聞いていません。″聴く″とは心で聞くと書きます。安倍首相には心が入っていません。日本列島、原発の影響のないところはありません。いつ福島のようになるか分かりません。大本から原発ゼロのたたかいを構築していきたい」といいます。
放射能に負けられないと隣り家の垣根のバラは紅白に咲く
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年12月15日より転載)