「慙愧(ざんき)に耐えない。黙っているわけにはいかない」。福島県川俣町に住む遠藤幹也さん(90)は、東京電力と国を被告にした生業(なりわい)訴訟の原告になった思いをそう語ります。
■リスク知ってた
60年以上前、東芝鶴見工場の重電部門で働いてきた遠藤さんは、東海村の原発建設の際に会社の要請で技術者の一人として説明会に出席しました。
「原子力は火力、水力などこれまでのエネルギーの代替になる。原発を造れば永遠に使える。開発に協力するように」と、会社から出席することを命じられました。
東芝のほかに日立、三菱など、日本のおもだった重電関連企業が参加していました。説明の中では原発事故のリスクについては触れられませんでした。
その後、各地の原発建設に派遣されて、福島原発の建設にもかかわりました。「原発を推進する側にいた私はリスクがあるにもかかわらず会社に命じられるままでした。原発建設に反対したことは一度もなかった」と言います。
「不完全な技術は将来の技術者が改善させるだろう」と自分を納得させてきました。
そうして生きてきた遠藤さんにとって「3・11」は青天の霹靂(へきれき)でした。「いままで誰にも話をしてきたことのなかった原発の不完全さについて息子に話しました」
息子の正芳さんは「それならば生業訴訟の原告になって、その思いを裁判長に訴えてほしい」と、訴訟に加わることをすすめました。
■自分が許せない
遠藤さんは、戦前戦中は、神奈川県にあった陸軍兵器学校で学び、火薬や銃器、毒ガスなど兵器に関する教育を受けました。「死にたくないし、前線で殺し合いをするのもいやで、兵器学校ならば第一線でドンパチしなくてもいい」と、選択したのです。
そうした戦争体験と比較しても、原発建設に反対しなかった自分が許せません。
「原発の仕事に行くと放射線量を記録する手帳を持たされ
た。原発の危険性を知っていたのに、警鐘を鳴らして反対を言わなかった。罪滅ぼしをしたい」と生業訴訟の原告に加わりました。
「原発を推進する側で飯を食べてきた。想像もしないような事故が起きていつまでも黙っているわけにはいかない」と腹をくくったのです。
川内原発の再稼働や、海外への輸出と、福島原発事故などなかったように振る舞っている国や原発推進企業の横暴に怒り心頭です。
「廃炉は簡単ではない。その方法についても確立されているわけでもない。事故の収束のめどもない。これほど無責任なことはない。誰も責任を取っていないなかで再稼働に進もうとしている。これでは再び原発事故を起こさない保証はない」と厳しく批判します。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年11月26日より転載)