─1号機が水素爆発した翌13日、他号機の水素爆発対策を検討したか。
「こちらでもう手がないんで、本店にお願いをして、何とか方策はないかと」「だけれども、どれを聞いても実現性がないような話ばかりで、すぐに手をつけられないという感じで、原子炉の中側はもう無理なので」ブローアウトパネル(本来、建屋内の圧力上昇で外れる設計のパネル)を開ける方法を何とか考えてくれと」
─有効な手だてが見いだせなかった。
「そうです」
─14日朝、放射線量も上昇し、3号機の格納容器から放射性物質が漏れているとの考えは本店も共通か。
「(テレビ会議の場で)私はしたつもりですよ。格納容器の圧力から見れば、1号機と同じような状況になりつつあると」「9時半か10時ぐらいに、爆発する可能性があるから、全員退避かけているんです」
─どこへの退避か。
「免震重要棟です」「ただ、(2号機の注水準備もあるので)私もものすごく迷ったんです。作業をさせるか、させないかということで」「本店と電話でやりとりがありまして、私は退避かけていて、いつまで退避させるんだという話があって、わからないけれども、爆発する可能性があって、現場に人間をやれないと私は言ったんです」
東電の武藤栄副社長から「そろそろ現場をやってくれないか」とあり、吉田所長は作業を指示しました。
「現場に出したら、爆発でした」
11時1分、3号機が爆発します。
「最初、現場から上がってきたのは、四十何人行方不明という話が入ってきた。爆発直後、最初の報告ですけれども、私、そのとき死のうと思いました」
「本当に悔やまれるんですよ。あそこで爆発するんだったら爆発させておけばよかったと。作業に戻さないでですね」
いつ水素爆発するかわからず、各号機の対応に当たらざるを得ない状況でした。(つづく)
(「しんぶん赤旗」2014年9月19日より転載)