福島県相馬市の底引き船の漁師だった南部浩一さん(62)は、東京電力福島第1原発事故後、廃業しました。海が放射能で汚されたことを知り決断しました。
「水揚げできず、リースの漁船の維持も大変になってきて辞めることにした」。15歳のときに漁師になって以来、海の幸を求めて暮らしてきた生活に終止符を打ったのです。
漁師の家に生まれて5代目だった南部さん。10歳のときに父親が足を切断する事故に遇いました。船をつないである綱が足に絡まり、引きちぎられたのです。
■妻を奪った津波
将来は漁師を継ぐ覚悟はしていたものの、突然に早まった漁師業に戸惑いました。高校への進学を考えていたからです。3人きょうだいの長男。姉と弟には「好きなことをさせてあげてほしい」と高校へ進学させることを条件に漁師のあとを継ぐことにしました。
それまで船に乗ったこともありませんでした。「4ヵ月間は慣れるまでに船酔いに悩まされた」といいます。とった魚を船上で選別して市場に出さなければ買ってもらえません。「魚の名前さえ知らなかった。先輩が魚を並べて教えてくれた。一から教わって一人前になれた」
お見合い結婚。妻の富子さんが経理を担当して二人三脚で働きました。3人の子どもに恵まれました。福島県沿岸で水揚げされるカレイ、ヒラメ、メバル、カサゴ、タコ、コウナゴ、シラウオなど海産物は「常磐もの」と言われてブランドもので高く取引されてきました。「暮らしは安定していました」東日本大震災の大津波は、富子さんの命をのみ込みました。遺体が見つかったのは4月4
日。「つらかったろう。人前では泣かなかったけれども1人になると泣いた。月命日には欠かさずに墓参りに行っている」
家は全壊。体育館での避難生活から仮設住宅に移り12月15日まで仮設で暮らしました。
「悲しんでばかりいられない」と、「わが家の復興」に取り掛かりました。自宅周辺の除染、自宅の改修、子どもたちの生活基盤の立て直しに取り組みました。
しかし、漁の再開は放射能汚染が影響して進みません。借金で買った船の返済もままならず、操業許可証を売却し廃業したのです。
■事故がなければ
「原発事故さえなければ、あと15年は漁師を続けられた。日中1人になり家にいるとさびしい」と、心境を語る南部さん。
「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」の原告に加わりました。国と東電に原状回復を求めていることに共感したからです。
「海を元に戻せ!」と思っています。海に出る夢を捨てていないからです。「魚の取れるポイントを知っているので釣り船を営業して太公望に楽しんでもらうことが夢」です。
「海は除染できない。放射能は最終的には河川を通じて海に流れてくる。東電も汚染水を海に流そうと考えている。海はゴミ捨て場じゃない」
県内すべての原発の廃炉を主張する南部さんは、全国の原発の再稼働にも反対します。
「人間がつくったものは必ず壊れる。危険なものをまた動かすなどとんでもないこと」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年9月1日より転載)