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“福島に生きる”撮り続け「後世に残す」・・アマチュア写真家 渡部幸一さん(73)

展示する写真を示す渡部さん
展示する写真を示す渡部さん

 福島市に住むアマチュア写真家・渡部幸一さん(73)は、「福島の今」を撮りつづけています。福島に住む人でなければ撮れないリアルな写真が記録されています。

■「酪農家の死」

 原発事故で置き去りにされて餓死した牛の頭がい骨の姿、「原発さえなければ」と抗議の遺書を残して亡くなった「酪農家の死」、「牛のいない牛舎」、全町避難になっている浪江町の請戸小学校の教室の黒板に「必ず帰ってくる!」と書き残された生徒たちの無念の思い・・。

 6月26日から29日まで開く「写真と絵画の二人展」(福島市の福島テルサギャラリー)に、その中の数点を出展します。

 38年間、中学校の英語教師をしてきました。退職後、本格的に写真を撮りはじめて14年になりました。日本リアリズム写真集団の全国公募展、第37〜39回「視点展」で連続して入選しました。

 福島県南相馬市小高区に生まれ育った渡部さん。「3・11」後は、小高区にあった母校の金房小学校(鳩原分校)や金房中学校(小高中に統合)、福島第1原発から5キロ圏内にあった県立双葉高校には今、生徒はいません。

 いわき市のいわき明星大学内にサテライト校を設けて授業を続けている双葉高校は、来年度から生徒募集をせず、中高一貫校へ移行します。現在の3年生が卒業すると「母校がなくなる」と、顔を曇らせます。

 大震災後に古里を訪ねましたが、バリケードで阻まれ、立ち入り禁止。「なんで自分の村から逃げなきゃいけね〜んだ」「なんで自由にわげの(自分の)田畑のものが食えね〜んだ」と、シャッターを切り続けました。

■地域に密着して

 小学生のときから写真が好きで、雑誌の付録のカメラをいじっていました。1963年に福島大学を卒業後、教員となって学校行事や卒業記念写真などを撮っていました。

 自然や気候、風土などを撮るネイチャー系より人物の表情や生活に主眼をおき、「今、後世に残さなくて誰が残すのか」と自問し、地域に密着して撮りつづけています。

 「3・11」後、「生活が一変した」と言います。「放射能とは何かゼロから勉強」しました。自宅周辺も放射線量が高く、地域の有志が協力しあって線量計測して地域マップにしました。

 「息子の仕事の関係で県外に避難することは困難でした。福島に残りました。原発ゼロにするほかないと腹を据えて反原発集会に出るなど忙しい3年間でした」と言います。

 「教え子を再び戦場に送るな」と、教育の現場に立ってきた渡部さん。集団的自衛権行使を容認し、戦争をする国へと変えようとする策動に危機感を強めています。

 「私の母親は、夫を戦争で奪われました。乗っていた船が撃沈されて戦死したのです。戦後、母一人で子どもを育ててきました。その一端を今回の二人展『たらちね』に表してみました。母の生き方と重ね合わせて戦争は二度と起こしてはいけない。集団的自衛権行使容認は絶対に反対です」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2014年6月17日より転載)

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