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“福島に生きる”田を汚染された悔しさ・・浪江町から避難 佐藤富子さん(70)

 

「復興住宅の建設を早く」と訴える佐藤富子さん
「復興住宅の建設を早く」と訴える佐藤富子さん

 「早く復興(公営)住宅を建ててほしい」。佐藤富子さん(70)は、生まれ育った福島県浪江町から福島市のしのぶ台仮設住宅に避難してきてから間もなく3年になります。

 狭くてストレスの多い仮設住宅暮らしから解放される日を心待ちにしています。「住むならば南相馬市につくられる復興住宅に入りたい」と考える佐藤さんですが、「入居募集も始まっていない」と、情報の不足と、遅れる復興事業にいら立ちを募らせています。

■仮設の近くに畑

 佐藤さんは、浪江町で田んぼ4町5反を耕す米作りの農家です。実家も農家でした。「昔とったきねづか」で、仮設住宅の近くに畑を借りてナス、キュウリ、トマト、カボチャ、スイカ、メロンなど栽培しています。「ストレス解消になります」

 東日本大震災が起きた3月11日は、草取りをしていました。経験のない揺れ。「怖かった」。自宅の窓ガラスはめちゃくちゃに壊れて、翌日はビニールハウスで寝ました。

 浪江町は、全町避難となりました。南相馬市、新潟県などの避難所を転々として、夫と91歳になる夫の母親、2人の息子の計5人が福島市の応急仮設住宅に落ち着きました。

 今年4月、浪江町の一部で、原発事故後初めて米の試験栽培が始まりました。浪江町での田植えは4年ぶりです。

■試験栽培対象外

 佐藤さんの田んぼは試験栽培の対象外です。「田植えができなくなってくやしい」といいます。「農作業は大変だけれども、秋に取れる(収穫できる)のが楽しみだった」

 種まき、田んぼの土作り、田植え、水管理、稲刈り、出荷と、米作りには88の手間がかかるといわれ、「トラクターなどの機械がないころは手植えなど腰に負担がかかりつらかった」といいます。

 農作業を奪われて70歳の佐藤さんに働く場はありません。「ひまはあるがやりがいはなくなった」と、田んぼを放射能で汚染され、故郷を奪われた悔しさをかみしめます。

 「本当に浪江に帰れるのですか。帰れても農業はできるのですか。農業で暮らしが成り立つまで賠償は続けてほしい」と佐藤さんはいいます。

 3年間、田んぼは放置されたまま。「セイタカアワダチソウなど田んぼは草ぼうぼう。水を田んぼに入れる水路は壊れた状態です。一時帰宅したときは草刈りをしてきます。希望はまだ見えてきません」

 次女が避難後に結婚、昨年11月に女の子の孫が誕生。頼まれると孫の世話をしています。

 「子どもと孫たちのためにも原発の再稼働に反対です。原発は廃炉にしてほしい」。浪江町の農家の願いです。

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2014年6月8日より転載)

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