命と古里、仕事を奪い、健康と家族をこわした東京電力福島第1原発事故。福島県楢葉町からいわき市に避難している金井直子さん(47)は、被害者と加害者の立場が逆転していることに衝撃をうけました。加害者の東京電力が一方的に損害賠償の基準を押し付けようとしていたことを知ったからです。
被害の原状回復を目指して避難者訴訟に加わりました。2012年12月、40人が原告となり第1次提訴しました。7月17日、第2次提訴を準備しています。
伯母は関連死に
「一人の主婦として」を強調する金井さん。2011年3月11日までは約70人が働くバルブ製造工場の事務職を担う責任を負っていました。当日、余震もあってパニックになった同僚もいましたが、全員の無事を確認できました。海岸の方を見ると津波が襲ってくるのが見えました。
職場は高台にありました。「家(自宅は)駄目だな」とつぶやく仲間たち。工場長と相談、職場解散としました。「てんでんばらばらに避難しました。その後職場の仲間とは二度と会うことがない別れ」となりました。
会社から家には帰れたものの、原発事故の知らせを聞き、急いで貴重品と毛布などを積み込みいわき市へ向かいました。車中や小学校の体育館などで避難生活を余儀なくされました。
大震災当時、大熊町に住んでいた79歳になる母親と連絡が取れたのは4日もたってからのこと。母は伯母と一緒でした。その伯母は昨年(2012年)9月28日に亡くなりました。避難生活をするなかで食事が取れなくなり、衰弱していき命を縮めたのです。原発事故関連死です。原発事故の避難生活がなければ亡くなることはありませんでした。「惨めな死に方をさせてしまった」と、つらく悲しい思いに駆られる母。いまは、いわき市の借り上げ住宅に住む金井さん夫婦とその子どもの近くで暮らしています。
「母は一戸建ての家で一人暮らしでした。広い家だったので、ストレスが多いでしょう。畑を耕すなどのんびりとした穏やかな暮らしが奪われました」と、母を心配します。
楢葉町にある金井さんの自宅は築5年。多額のローンが残っています。そのうえ「一生の仕事」と思っていた職場を奪われました。
決意の事務局長
「このままでは終われない」。悔しさがにじんでいます。原告団事務局長を引き受けたのは、「逃げないで避難者の負っている過酷な実態を見つめて東電に責任を取らせていく」決意を固めたからです。
「国策で始まった原発です。子どもたちの未来と今後の日本。『これでいいのか』が問われています。裁判は死ぬまでかかるかもしれません。勝つまではいばらの道。けれどもあきらめたくはありません」。
(菅野尚夫)