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被災して初めて分かった・・一番信じられる今度は共産党/福島市仮設の鈴木愛子さん

福島市仮設に避難 双葉町出身・・鈴木愛子さん(73)

福島市内のさくら仮設住宅で避難生活をおくる双葉町出身の鈴木愛子さん(73)
は「ずっと自民党できたけど、今度は共産党です」と話します。

「被災して初めて支援を受ける立場になりました。

一番困っているときに支援してくれました」と、日本共産党にたいする見方が変
わり、一番信じられる党」になりました。

(2011年)3月11日、東日本大震災の日。鈴木さんは、東京電力福島第1原発からわずか2キロの自宅前の畑にいました。体験したこともない強い揺れに襲われて「この世の終わりだ」と思いました。目の前で屋根瓦がバラバラと落ちてきました。高台だったことから津波の被害はありませんでした。

その日の夜8時ごろ「爆発の恐れがある」と、避難指示が出ました。公民館は避難者でいっぱいでした。車中泊。ガソリンがなく、エンジンもかけられず寒さに耐えました。さらに川俣町の小学校体育館へ避難。爆発があったことを知りました。飯坂温泉に移動、福島市内の自治研修センターへ行きました。夫が病後のために個室に入りました。4月から会津若松市の猪苗代のホテルヘ避難しました。手術後で歩行が困難な夫を介護しながらの避難でした。

7月12日、福島市内の仮設住宅に移りました。「周りも同じような境遇の人たちとの暮らしは、長いような短いような、月日はあっという間に流れました」

大震災から2年を過ぎて心ない暴言が相次ぎました。自民党の高市早苗政調会長の「原発事故で死者はでていない」として再稼働に意欲をしめした発言や、復興庁幹部職員がツイッターで国民を「左翼のクソども」とののしるなどです。

「被災者の現実の生活を見ていない」と怒ります。

双葉町に帰れる見通しはありません。町からは、復興住宅の建設についての説明もありません。

「仮の街で暮らさざるを得ないのなら一戸建ての住まいを賠償してほしい。仮設はあくまでも仮設です。復興の一番の課題は家を確保することです。早く解決してほしい。骨折して週1回リハビリに通院しています。被災者にとって医療の問題は大切です。医療の窓口負担無料化を継続してください」

原発立地町に住み、「安全だ。安全だと宣伝されて、信じてきました。再稼働など絶対反対です。自然エネルギーに転換してください」。
(菅野尚夫)

 

「民主主義の一票」欠かさず・・70年前「共産」口に出せず/石巻市仮設の95才84才姉妹

「共産党が、仮設団地にいろいろと応援物資を届けてくれてありがたかった」と話すのは、宮城県石巻市内に住む95歳と84歳の姉妹です。東日本犬震災で被災し、仮設住宅に2人で暮らしています。

「70年前は″共産党″なんて言葉すら口に出せなかった」と姉はいいます。自由にものが言えない空気や、逮捕される人を見てきました。「平和な、いい世の中になったね」と、かみしめるように繰り返します。

妹も「今は自由にものが言えるからね」と相づちを打ちます。

戦時中、2人は県内の陸軍と海軍の軍需工場でそれぞれ働いていました。陸軍の工場で働いていた姉は、米軍の空襲を受けました。爆風で破片が飛び散り、「あら、死んだわと思ったの。でもこの歳まで生きてこられたわ」と振り返ります。

妹は「お姉さんは大佐の悪口を言うから『あいつは共産党だ』と目を付けられていました」と笑います。すかさず姉が「ちょっと反対のことを言うと、なんでも″共産党だ″と言われたんだよ」と話しました。

姉は「そういう時代を経てきたから、なんだかいまでも″共産党″といえないんだよね」と苦笑い。

2011年11月の県議選で、石巻・牡鹿選挙区で三浦一敏さんが当選し、同選挙区初の共産党県議が誕生しました。2人は「三浦さんに立ってもらってよかったね」「地元から議員が出るのはうれしい」と口々に話しました。

姉は「選挙には毎回欠かさず行っています。民主主義の世の中だもの」と語り、妹もうなずきました。
(仁田桃)

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