「精いっぱいに生きてきた3年でした」。福島市に医師の長男家族と暮らす渡部(わたなべ)保子さん(72)は、そう振り返ります。
精いっぱい3年
生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟の第5回口頭弁論(3月25日)で原告側の意見陳述にたちました。
「孫たちや次の世代が、きれいなふるさとで生まれ育ったという誇りを取り戻せるように、早く国と東京電力は、自らの過失を認め、二度と同じことを起こさないよう解決に力を尽くしてください」と訴えました。
安倍内閣が原発を「重要なベースロード電源と位置づける」と閣議決定をしたことから、「(法廷で訴えた)あの時の気持ちを心の奥底に沈めずに、福島の声をしっかり全国へ伝えていかなければいけない」と思っています。
「自分ができることはそう多くない。ただ嘆いているより『分かったこと』『納得したこと』は精いっぱいやろうと思ってきた」
宮城県登米市石越町に生まれた渡部さん。両親が教師の家で育ちました。親と同じく教師となったことを「よかったなあ」と今では感謝しています。
教師になって最初の担任となったときの教え子たちに「原発ゼロ」を求める署名を訴えたところ「1万円のカンパとともに集めた署名を送ってくれた」ことなど、今も絆が生きているからです。
原発事故のあった(2011年)3月12日、給水などで長時間、水くみのために並びました。医師の長男家族たちは「病院や施設は受け入れ先が決まり、最後の患者さんの移動が決まったら自分たちの移動になる」と説明してくれたので福島にとどまることにしました。
渡部さんは「孫たちだけでも避難したらどうか」と思いましたが、長男家族の決意は変わりませんでした。そのため不安を抱えた周りの人たちと食べ物や安心のための暮らしの知恵を学ぶ場に参加したり、その機会をつくりました。
福島県で暮らすようになって54年になります。福島大学学芸学部(当時)に入学。松川事件の真相を究明する活動や安保闘争などにかかわりました。幼い日、映画「ヒロシマ」や壺井栄の小説にふれ、「戦争はいや」の気持ちはずっとあり、卒業後、福島で中学の教員になりました。
「何だ。女先生か」と男尊女卑の風潮の中で「子どもたちと親たちに分かるように話すこと」を貫き、信頼を得るように努力しました。「学年便り」も「深い内容をやさしい言葉で伝える」ことに努めました。
小説の一節読み
「3・11」から3年がすぎて渡部さんは新たな思いを強くしています。
本紙連載小説『時の行路』の「傍聴席を埋め尽くせないようでは『裁判は負けたに等しい』というのが争議の常識であった」という一節を読み、「自分たちの原発裁判も同じだ」とみんなに声をかける意味をかみしめました。
「原発事故によって平穏に暮らす権利が奪われました。権力側は『福島原発事故は終わった』と国民に思わせようとしています。死ぬまでたたかいです。諦めない気持ちを発信し続けて共感してくれる人を増やしたい。原発の後処理を後の世代に残すことはできません」
(菅野尚夫)