「逃げるのは無理」被災で改めてわかる危険性
能登半島地震で家屋の倒壊や海岸の隆起など甚大な被害を受けた石川県珠洲市。もし、この地に原子力発電所が建設されていたら―。かつて、原発建設計画に翻弄(ほんろう)された同市・高屋町で反対運動のリーダー的存在だった円龍寺(真宗大谷派)の塚本真如住職(78)は被災したいま、「僕らの命とは共存できるものやなかった」と振り返ります。(田中智己)
1月1日、自宅の居間でくつろいでいた塚本さんは、強い揺れを受け、本堂の様子が心配になり確認しに行ったといいます。2回目の揺れのときは、立っていられず「つぶれないでくれ」と願うしかなかったと話します。
塚本さんが暮らしていた高屋町は、市街につながるすべての道路が土砂崩れで断絶。海岸は隆起し、港から船を出すこともできない孤立集落となっていました。塚本さんは、もし、原発建設が進み、稼働していて重大事故が起きていたら「逃げることはまず無理だ」と話します。
孤立集落となった同町では1月10日にようやく市街につながる道路の一つが復旧し、翌11日に集落の約9割の住民が脱出。塚本さんが2次避難先の加賀市の旅館に着いたのは翌12日になってのことでした。集落に残った10人のうちの一人、川渕雅貴さん(71)は「雪が降ったら通れなくなる」と道の険しさを語ります。亀裂や陥没した峠道を応急復旧した道は、市役所まで1時間ほど。いまなお亀裂や陥没した道に砂利を敷いただけの悪路の状態が続いています。
命がけで反対
中部、北陸、関西の各電力3社による原発建設計画が姿をあらわしたのは1975年初頭です。同年、珠洲市と同市議会が原子力施設の立地調査を当時の通商産業省へ要望し、翌76年3月に同省が予備調査を実施しました。3社が2003年12月5日に珠洲原発計画の凍結を発表するまでの28年間、原発建設計画をめぐり地元住民や周辺市町を含めた漁業関係者による壮絶なたたかいの日々が始まった瞬間でした。
日本共産党の新井田義弘・元能登地区委員長は、蛸島漁協(現石川県漁協すず支所)を中心とした漁民による「命がけのたたかいだった」と話します。89年に関電、北電が高屋町で立地可能性調査を強行した際には、市役所での40日間の座り込みを行ったといいます。
2月20日、記者が高屋町を訪れた日は綿々と降り続く雨が被災した地域の暮らしの厳しさを物語って
いました。狼煙(のろし)漁港(高屋地区)の片隅に建てられたすず支所では、漁協組合員の吉田峰生さん(65)が書類の片づけをしていました。
地震で海底が隆起し、漁船が港内すら自由に航行できなくなっていると話します。「県全体の被害状況の把握もまだ進んでいない。高屋を直してくれと言ってもいつになるか」と先行きの見えない状況に不安を抱えます。吉田さんは当時、珠洲原発建設計画に賛成の立場だったといいます。ただ、地震を経て「いまとなってはなくて良かった」と話します。
元日本原子力研究所勤務の舘野淳氏(元中央大教授・工学博士)は、震央に近い北陸電力志賀原発が想定を超えた地震で、変圧器の油漏れから外部電源を一部喪失したと指摘し、「稼働中の原発が外部電源を喪失し、これに代わるディーゼル発動機が引き続く地震動によって運動できなくなれば、全電源喪失が起こり、炉心の冷却ができなくなり、炉心溶融に至るという福島第1原発事故が再現される可能性が非常に高かった」と強調します。珠洲原発が計画通りに2014年に運転開始していた場合は重大事故につながっていたと警鐘を鳴らします。
日本共産党は、能登半島地震で起こった原発の重大なトラブルを巡り、事実を明らかにするとともに、志賀原発、柏崎刈羽原発(新潟県)の廃炉を強く求めています。
電力3社は03年に計画の凍結を発表した際、「地元情勢は可能性調査も実施困難であり、発電所用地確保の見通しが立たない状況にある」と計画凍結の結論に至った背景を説明しました。
ゼネコン癒着
塚本さんは建設計画の反対運動は、土地を巡るたたかいだったと振り返ります。原発立地を前提としない建前で、関電と北電が89年5月に高屋で着手した「立地可能性調査」。実態は電力会社が原発着工を前に行う事前調査でしたが、同年6月、住民の抗議で調査中断に追い込みました。
一方裏では清水建設など大手ゼネコンによる原発予定地の代理買収が行われていたといいます。この問題は国会でも取り上げられ、日本共産党の緒方靖夫参院議員(当時)が99年10月27日の参院決算委員会で、関電とゼネコンの癒着を暴き、不明朗な土地取引の実態を明らかにしました。
原発建設計画が高屋に持ち上がったころ、塚本さんは知人に誘われ、青森県六ケ所村で建設中の使用済み核燃料の再処理工場を訪れました。六ケ所村に向かう国道沿いに乱立する大企業の看板を見て、「原発反対は、こんなの(大企業)を相手にしなければならないのかとぞっとした」と話します。
高屋で原発反対運動を始めたばかりのとき、住民は慣れていない署名活動に緊張で手を震わせていたといいます。勝ち目のないような巨大な相手に反対運動を挑み続けた塚本さんを支えていた思いは何だったのか―。
塚本さんが七尾市の寺の友人を訪ねた際、友人が父親を「日本をダメにした男」と呼ぶ姿を目撃しました。友人に「なんで親父をそんな呼び方するんや」と聞くと、友人は「戦争に反対せんかったからや」と答えたといいます。この言葉にハッとさせられたといいます。原発に反対しなければ、子どもに対して父親と名乗ることもできないと反対運動への決意を固めた瞬間でした。「負けてもとにかく最後までやり通そう」
珠洲原発凍結から20年超。いま「珠洲に原発がなくて良かった」との声が広がっています。能登半島地震は私たちにあらためて原発の持つ危険性を突きつけています。
(「しんぶん赤旗」2024年3月3日より転載)