福島・双葉郡ルポ
避難指示が解除になり戻った人も、放射線量が高い「帰還困難区域」でいまも避難を余儀なくされる人も、事故で地域のつながりや人生を奪われた苦悩が続いています。帰還困難区域が残る福島県双葉郡を訪れました。(小林圭子)
■双葉町
福島第1原発が立地する双葉町。事故当時、7000人以上の全住民が避難を余儀なくされた同町では昨年8月、一部地域(特定復興再生拠点区域)の避難指示が11年ぶりに解除されました。2月末時点で60人が住んでいます。
新しいJR双葉駅の隣に、旧駅舎を改装し住民らが集えるフリースペースがありました。常駐する職員と話していた細澤靖さん(78)は、生活を再開するための準備宿泊が始まった昨年1月、駅から1キロほど離れた自宅に戻りました。「うちがあったから帰ってきたけど、つまんなかったな」と寂しげな表情を浮かべます。近所で戻ってくる人はいないため、2日に1度は旧駅舎に来るといいます。
町内で鉄工所を経営していましたが、工場は解体。「家の畑で野菜を作っているが、ハクビシンやタヌキに食われちゃう」と肩を落とします。
市街地は空き家ばかりです。線路をまたぎ国道につながる高架道路の工事が進められていました。「あれを作るより、働くところや学校をつくって『どうぞ来てください』とするのが先じゃないか。戻ってくるのは年取った人ばかりだ」と細澤さんは話します。
一部地域で避難指示解除 福島・双葉郡を行く
明かりともらぬ家々
スーパーもコンビニも銀行もない
国よ東電よ 故郷失う苦しみ知って
住民の56%「戻らない」
福島県双葉町にあるJR双葉駅のすぐ裏に、長屋づくりの復興公営住宅が建てられています。86戸が計画され、現在17世帯が住んでいます。
同県いわき市から小中学生の子ども2人と移住してきた女性(47)は、町外の会社に勤め在宅勤務をしています。町内には学校がなく、子どもたちは町外の学校に車で通っています。
町にはスーパーやコンビニ、金融機関もありません。買い物やお金を引き出すにも隣町へ車で40分ほど。2月に診療所が開所しましたが、診察は週3日、内科のみです。女性は「歯医者や小児科は町外に行っている。車を使うので、ガソリン代を支給してほしい」と要望します。
福島県双葉町の復興公営住宅を、福島県立医科大学教授で看護師の資格を持つ佐藤美佳さんが戸別訪問していました。昨年2月から毎週1回ボランティアで訪問しています。「準備宿泊が始まった当時、住民は夜、仕事の帰宅がてらに車で町を回って家の明かりを確認していた。1、2カ月たっても『どこも電気がついていない』といって、メンタルが落ち込んでいた」と話します。
復興住宅には、同じ地元の住民でも顔も知らなかった人たちが集まっています。「みんななかなか自分から会いにはいかない。私が間に入って、つないでいく役割になりたい」と佐藤教授。戸別訪問のほか、月に1回みんなで集まり体操などをする「ヘルス&レクふたば」を開催しています。集会は、体を動かすだけでなく近況報告や町への要望を出し合う場にもなっています。
郵便ポスト実現
要望の一つ、郵便ポストの設置が先月末、実現しました。それまで町内唯一の郵便ポストが復興住宅から約2キロ離れ、車やバスを使って行かなければいけませんでした。住宅から近い役場への設置を住民が町に申し込んだのは昨年11月。腰が重い町に粘り強く働きかけ、ようやく設置されました。
設置を求め奮闘した橋本幸一さん(63)は「ポストがないのには驚いた。でも、一つずつでも要望をかなえていきたい。次は銀行のATM(現金自動預払機)の設置に向けて頑張りたい。車のない人もいるので、いますぐほしい」と意気込みます。
避難指示が解除になったのは町内の面積のわずか15%です。ほかの場所に入るためには、住民でも町の許可が必要です。
復興住宅にひとりで住む女性(86)は「みんなに一緒に戻ろうと声をかけたが、『お墓や家がすぐそばに見えても行けないなら…』と戻ってくる人はいなかった」と声を落とします。
町と県などが昨年実施した住民意向調査によると、回答者1295世帯のうち「戻らない」が56%で、「戻りたい」は14%。戻らない理由は「避難先で自宅を構えた」が最も多い55%、次いで「医療環境に不安がある」が41%でした。また、「原発の安全性に不安がある」「水道水などの生活用水の安全性に不安がある」はそれぞれ2割を超えていました。
行政の復興計画はどうなっているのか。町の復興推進課によると、スーパーなどの商業施設はこれから設計が始まり、1、2年先をめどにつくられるといいます。営農に向けては試験的な栽培が始まったばかり。学校の再開はこれから検討していくといいます。
復興課の土井英貴主任主査は、復興が遅れている理由に原発災害による困難さを挙げます。住民が広域に避難したことで、町づくりのための住民との対話が難しくなっていると話します。
自宅はさら地に
「国や東電は人間の生きざま、心情を全然理解していない。みんな人生がくるってしまった。お金では代えられない」。福島原発から7キロほどの自宅(富岡町)で美容室を営んでいた深谷敬子さん(78)は悔しさをにじませます。いまは同県郡山市に避難しています。
自宅のあった地域はいまも帰還困難区域に指定され、今年1月に店を解体。事故前は店にカラオケも置き、近所の人が集まり「たわいもない話に毎日ケタケタ笑っていた」と思い返します。解体され、さら地になった跡地をぼうぜんと眺め「面影も何もない」とつぶやきました。
事故前は約1万6000人が住んでいた富岡町。約9600人がいまも町外に避難しています。今春、特定復興再生拠点区域が避難指示解除の予定となっており、昨年4月に始まった準備宿泊には26世帯54人が登録しているといいます。
深谷さんが野菜を育てていた広い畑で、除染作業が進められていました。「除染しても戻れない。買ってくれる人がいなくて、どうしたらいいのか」
国と東電に損害賠償などを求めた「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ」福島原発訴訟の原告として、最高裁までたたかいました。国の責任を認めなかった最高裁判決に「知らない土地で暮らす苦しみをもっともっとよくわかってほしい」と深谷さん。息子らがたたかう訴訟第2陣で、避難者の思いが認められることを願っています。
(「しんぶん赤旗」2023年3月11日より転載)