福島県でも、「原発ゼロ金曜行動イン会津」の人たちが会津若松市でスタンディングを続けています。536回目になった昨年12月30日の行動では、「原発はすぐ やめんべなし(やめましょうね)」と書かれた横断幕などを掲げて、原発回帰政策に転換した岸田政権に抗議し原発ノーの意思を込めて、寒風厳しい夕方1時間立ち続けました。(阿部活士)
スタンディングの開始は、2012年9月。3人の呼びかけ人は、11年3月に起きた東京電力福島第1原発事故前に、原発の危険性を知り、運動を始める予定でした。
1人は、キリスト教・若松栄町教会の高橋力牧師(故人)と副牧師で妻の高橋真美さんです。
高橋夫妻は、いわき市で脱原発の運動をしていた伊東達也さんらを講師に、10年12月に原発の危険性についての学習会を開催。「原発が爆発したら大変なことになる」と知り、翌11年3月末に原発廃炉を求める運動を開始させる計画でした。
その直前の3月11日に恐れていた人災・原発事故が起きました。「とても悔しかったし、勉強だけでなく、行動しなきゃいけない」と痛感したと真美さんはいいます。
会津中高年雇用福祉事業団理事長の和合(わごう)恭子さんも、福島県職員時代いわき市で勤務した時に原発の危険性を学びました。「懸念されていた原発の事故は、退職後、会津に戻ってからの出来事でしたが、何かしたいと思いました。原発で故郷を奪われた人たちが10万人もいます。金曜日1時間街頭に立つことしかできないけど、連帯して原発をなくしたい」と呼びかけ人になりました。
和合さんはスタンディングの真ん中に立ち、カンパ箱と署名用紙をもって、市民に訴える役目です。
声かけ励みに
途中から参加した人たちも、和合さんらの熱心さや避難者の思いをうけて続けているといいます。
原発立地自治体の大熊町は事故後に会津若松市といわき市に町役場臨時出張所を開設。会津若松市内の応急仮設住宅にはピーク時に避難者1440人が暮らしていました。
三原敏男さんは、スタンディングしていると、避難者が「ごめんね。俺の代わりにやってくれて」と声をかけてくれたことが励みになり、「この思いが権力者に届くようにと続けています」。
前田均さんは、「団体に関係なく、個人有志として始めたから、ここまで続けられた。しかも、原発ノーの一点での結集です」と指摘します。
行動を共にするなかで、2013年に沿岸部の被災現地に学ぶ会を開きました。沖縄・名護市辺野古への米軍新基地建設に反対する人たちと交流するツアーも行ってきました。
福島復興が名ばかりの政府の施策に厳しい目をむける参加者もいます。
沖縄に学んで
福島共同復興センターの仲間から誘われて途中から参加した長谷川一夫さんは、「国のやっていることは福島の復興じゃなくて、暮らしや産業を縮めている政策ばかり。許せない。水素爆発した原発の核燃料の処理さえできていないのに、新たに原発をつくる計画なんて」と批判します。
二瓶聡さんは、国との関係で「民意無視」では、沖縄に似ていると話します。「国に負けるわけにはいかない」と力を込めます。
「こんなに続くとは思わなかった。本当は原発をなくして、行動も終えて乾杯したいけど」と笑いながら話す二瓶茂子さんは、「秋葉賢也復興大臣が更迭されたけど、この12年間で13人も代わっている。これって、どれだけ福島を軽視しているかが、よくわかる」といいます。
「原発に回帰する方針を掲げる岸田政権は打倒しかない」と和合さん。
4月7日が550回記念の金曜行動となります。23年のたたかいの合言葉は、沖縄のたたかいに学び、「勝つまで、あきらめない」です。
(「しんぶん赤旗」2023年1月12日より転載)