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原発避難を語る 母親たちを変えた記録(下) 再稼働に「つらい体験なんだったの」 地道に社会よくしたい

原発事故前の、のどかな晩秋の田村市=2010年

 「10年はあっという間でした。日々の生活に必死でしたから」。内田啓子さん(47)は、東京電力福島第1原発事故の10年を振り返って、こう話します。

 内田さんは、2010年10月、福島県田村市にある中古の家を購入し、家族5人で引っ越しました。子育てのための豊かな環境と家族の時間を手に入れるためでした。夫も転職。「親切な地域の人にも支えられ、心豊かな時をすごしました」

 5カ月後の11年3月11日に原発事故。田村市は、福島第1原発から20~30キロ。いろいろ調べ「放射能の影響は楽観できない」と判断しました。翌日、栃木県の内田さんの実家に家族5人で一時避難しました。その後、最終的に田村市には戻らず、11年9月に栃木県南部の民間賃貸住宅に移りました。夫と、とことん話し合った結果の決断でした。

 こうした葛藤、悩みはありましたが、「他の被災者の苦しみに比べたら、私たちの傷は軽い」と内田さんはいいます。

 それでも、栃木に移った直後、田村市の内田さんの居住地域は「放射線量が低い」との理由で避難指示が解除され、電気料金や固定資産税の免除はなくなりました。17年には、民間賃貸住宅を借り上げた、みなし仮設住宅の家賃免除が終了。以来、家賃と住宅ローンの二重払いを続けています。

「なぜ事故が」懸命に調べて

 内田さんは「震災まで政治には無関心、社会とのかかわりも希薄だった」といいます。なぜ事故が起きたのか、原発はどのようにして導入されたのか、懸命に調べました。日本に多くの原発があることなど、知らないまま過ごしてきたことに複雑な思いでした。

栃木県益子町での避難者の講演会=2014年12月

 原発事故後も「これ以上ひどいことはないから、これからは日本はきっとよくなる」と信じていました。しかし、「10年たってむしろ悪化した」と内田さん。原発事故は、日本社会のさまざまな問題をあぶり出しました。過疎化、エネルギー、教育…。「子どもが育つのに不安しかない。明るい未来が描けない」

 とくに原発再稼働。「再稼働は信じられない」と。「一体、私たちのつらい体験はなんだったのでしょう。被災者は10年たっても大変な状況にあるのに、それを無視している。なかったことにして、新たな犠牲をまた生み出そうとしている」

 昨年来のコロナ禍では、政府の対応と原発事故での体験が重なりました。「自助を押し付け、国民に犠牲を強いる。同じことの繰り返し」だと内田さんはいいます。「失敗から学ばなければ、必ず失敗を繰り返す。戦争経験者、足尾銅山鉱毒事件や水俣病の被害者も『二度と同じような被害者を出してほしくない』といっていたはず」

長いたたかい 困難あっても

 内田さんは「家族が今もこうして暮らしていけるのは、国内外の多くの方々の支援のおかげ」と考えています。少しでもその恩返しをしたいと、自分の体験からどんなことができるのか、ずっと考え続けています。

 地域でのお手伝い、栃木避難者母の会での活動はその一端です。「母の会は大山香さん(同会会長)のパワーに巻き込まれました」と笑います。

 10年たった今、内田さんは「少しでも社会をよくすることができれば」と考えています。「子育てをしながら社会参画というのは、困難を伴います。長いたたかいになるでしょうが、地道に前にすすもうと思います」

(「しんぶん赤旗」2021年11月13日より転載)