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原発避難を語る 母親たちを変えた記録(上) 悩み・苦しみを共有して交流 「社会変えたい」と勇気が

栃木県那須塩原市での交流会=2015年1月

 1冊の冊子があります。『原発避難を語る―福島県から栃木県への避難の記録―』(以下、証言集)。東京電力福島第1原発事故によって、避難を余儀なくされた母親たちの魂の記録です。原発事故は女性たちをどう変えたのか、2人の話を紹介します。(徳永慎二)

 「一時は“死”も意識しました」。福島市で夫と子どもの4人ぐらしだった大山香さん(56)の当時の話です。原発の爆発で一気に恐怖心が高まったといいます。「血眼になって」放射能について調べました。不安は強くなり、2011年9月に宇都宮市に「自主避難」しました。

 「放射能の被ばくストレスから解放されたのは、本当によかった」と、みずからも携わった証言集でのべています。

封印してきた“お上”の批判

 13年に栃木避難者母の会を立ち上げました。代表は大山さん。それまでも高齢者など避難者の訪問支援に取り組んできました。「みなさん、壮絶な喪失感のなかで、言葉にできない感情を秘めていると感じました」

 大山さん自身が放射能への不安、社会や政治への憤りをかかえていました。その受け皿になったのが、宇都宮大学福島乳幼児・妊産婦支援プロジェクト(FSP)でした。FSPの大学教員らは、原発事故直後から放射能の影響を受けやすい乳幼児・妊産婦の支援を続けていました。大山さんは強い共感を覚えました。

 教員たちと交流を深め、さまざまな企画にかかわりました。それを通して、自主避難をした母親たちが、自分と同じように悩み、苦しんでいることを知りました。母の会はこうした母親たちの交流の場として誕生したのです。

宇都宮市でのクリスマス交流会=2016年12月

 大山さんは「震災前まで『お上』を批判することはいけないことだ、怒りは封印しなければいけないと思っていた」といいます。事故をきっかけに、原発や放射能など「原子力の真実」をいや応なく知ることになりました。

 一方で、過去に「原子力の真実」を語っても評価もされず、排除されてきた人が多数いたことを知ります。「周囲に同調しない人」の主張は、物事の本質を突いているケースが多くあるように思いました。少数派に厳しく、暗に多数派に迎合を強いる社会の方が不健全ではないか、と考えるようになりました。

 大山さんはのべています。「原発事故を通して、私は根底から社会を変えたいと痛切に願うようになり、そのためには自分が変わるしかないと、勇気を出して活動を始めました」(証言集)

 その活動を通して「避難者一人一人の尊厳、かけがえのない人生、生活に光をあてたい」と思いました。その思いは証言集として実を結びました。

怒りを文章化 心が浄化され

 大山さんは第1原発に近い福島県富岡町が故郷です。

 「のどかで穏やかな時間が通り過ぎていた私の故郷に、今はだれも住んでいないのだ、その光景を思い出すたびに胸が痛い」とのべています。「原発事故が根こそぎ、自分たちの心のよりどころを奪った。原発は、地方の小さい町の住民が犠牲になる発電であるということを考えてほしい」

 FSPの大学教員に話を聞いてもらったり、怒りや不安を封印しないで発言し、文章化することで「心が浄化していった」とふり返ります。

 それだけに「若い人には自分に忠実であってほしい。お互いを認めあい、失敗してもばかにしないで、挑戦自体を励ます社会をつくってほしい」と願っています。

 「自主避難者」の経済負担は重く、先が見えない生活で不安は大きかったものの、いまは周囲の支えもあり、だいぶ改善されてきたといいます。「原発事故は核災害であり、放射性廃棄物や、人間に与える影響など、環境や次世代に対して深刻な問題が未解決です。今後も地道にかかわっていきたい」。大山さんの今の気持ちです。(つづく)

(「しんぶん赤旗」2021年11月12日より転載)