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福島に生きる 柴田明範さん(55) 津島訴訟判決を前に(上)

奪われた10年 取り戻す

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で住民がふるさとを追われた福島県浪江町津島地区。10年たった現在も帰還困難区域です。住民1400人は今も帰宅できず、県内外で避難生活を余儀なくされたままです。奪われた故郷と暮らし。国と東電に原状回復と損害賠償を求めた浪江町津島訴訟(今野秀則・原告団長)の判決が30日、福島地裁郡山支部(佐々木健二裁判長)であります。判決を前に3人の原告の思いを聞きました。(菅野尚夫)

 津島地区の多くの住民はPTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつ症状に苦しんでいます。

 柴田明範さん(55)は避難生活のストレスからメニエール病を発症しました。めまいがひどく、今も健康の不調が続いています。

 柴田さんには長男(35)、次男(33)、三男(31)、長女(25)、次女(22)の5人の子どもがいます。

進学を楽しみに

 当時中学3年生の長女、小学6年生の次女は地元の友達と浪江高校津島校と津島中学校に進学することを楽しみにしていました。原発事故で避難先の二本松市の学校に転校せざるを得ませんでした。

 転校先では、「放射能がうつる」「近寄るな」などといじめにあいました。

 次女は「人に酔う」「人が押し寄せてくるような感じがする」と、布団から出てこなくなりました。津島よりもはるかに密な人並みに圧迫されたのです。

 「津島に帰りたい」と懇願する次女に向かって、柴田さん夫妻は「津島は放射能に汚染されたの。今はここで頑張るしかないんだよ」と諭すことしかできませんでした。

 先生が迎えにきてくれましたが、車から校舎を見てくるだけでした。次に校門に触って帰ってくる。そして保健室で自習…。徐々に学校にいる時間を長くして、きちんと通学できるようになったのは3年生の冬になってからでした。

住まい安定せず

 柴田さん一家は親戚のいる栃木県日光市に避難しました。その後二本松市の仮設住宅に4年、築70年の借り上げ住宅に6年と安定しない住環境が今も続いています。津島の自宅はまだ築30年です。

 「裁判でたたかっているのは奪われた10年を取り戻すためです。『3・11』の前に戻してくれればいい」

 6月、原発事故で新潟県に避難した237世帯805人が国と東電を訴えた集団訴訟で、新潟地裁は東電の責任を認め、賠償を命じました。しかし、国の責任は認めませんでした。

 柴田さんはいいます。「国に責任がないとなれば、全国の原発が再稼働される。福島の教訓を忘れている。津島訴訟がどちらを向いた判決になるのか注視してください」

 (つづく)

福島原発津島訴訟とは

 東京電力福島第1原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民643人が国と東京電力に、除染による原状回復とふるさとを奪われたことへの精神的慰謝料など計約265億円の支払いを求めた裁判。津島地区は、福島第1原発から約25~30キロ圏内にあります。国は、10年たった今も一部区域を除き、除染をしようともしません。

 裁判の争点は、(1)原発事故を起こすような大津波を予見することができたか(2)予見できたとしても被害を回避する可能性があったかどうか(3)損害賠償額が原子力損害の範囲判定の指針である「中間指針」で十分なのか―などです。

 原告側は、国の地震調査研究推進本部が2002年にまとめた巨大地震の「長期評価」によって大津波を予見できたとしています。規制権限を行使しなかった国と、主要な建屋の水密化などの対策をとらずに事故を回避できなかった東電の責任を追及しています。

 「中間指針」は、被害実態に見合った賠償額となっていないため被害者の救済に十分ではないと強調しています。

 被告の国と東電は、大津波の予見可能性については予測される津波と実際の津波は異なり十分な科学的根拠がなかったこと、結果を回避する方法もなかったなどと主張しています。

(「しんぶん赤旗」2021年7月24日より転載)