2011年3月11日に起きた東日本大震災から10年。福島原発事故による避難者は、福島県の発表でも3万6000人以上といわれています。そんな中、避難指示区域外から東京に避難した鴨下全生(まつき)さん(18)は、今も原発事故による分断と差別に苦しんでいます。思いを聞きました。(加來恵子)
あの事故から10年。多くの人々にとって、記憶が風化しつつあります。オリンピックが復興のシンボルとなり、原発事故の被害そのものが、無かったことにされてしまうのではと、焦りを感じています。
たまたまコロナ禍でオリンピック自体が延期されましたが、放射能被害は今も続いていますし、復興という言葉で原発事故をなかったことにしてはいけないと思っています。
一方で、現在稼働している原発が57基中、4基に食い止められているのは、福島第1原発事故により、多くの人々が原発の危険性に気付き、訴訟や原発再稼働に反対して行動した結果だと思います。
教皇に訴え
避難後、死にたいと思うほどのいじめや差別に苦しみ、小学校卒業をきっかけに、過去を隠して生きるようになりました。しかし、自らを偽って生きるつらさにも耐えられなくなり、16歳の時に、そのつらさをつづった手紙をローマ教皇に送りました。
2019年にローマ教皇が来日した際には、広島、長崎の訪問だけではなく、東京で(地震、津波、原発事故の)三重災害を経験した被災者との集いが開かれたので、そこで原発事故の被害を語り、分断や被ばくの無い未来を訴えました。
しかし集会直後、会場にいた被災者から「“避難できた僕らはまだ幸せ”とはどういう意味だ。私は今も福島県に住んでいる」と怒りに満ちた声で言われ、返事ができず、その夜は39度の熱と胃の激痛に苦しみました。
区域外避難者は、しばしばこのような言葉を浴びせられます。苦しんでいる人同士が、互いに傷つけ合い、力尽きるのはもったいない。理解しあい連帯していきたい。この苦しみもまた、政府と東京電力が引き起こした原発事故による被害です。
被害いまも
核兵器禁止条約が発効しましたが、日本政府の不参加が、大きな議論になっていないことを残念に思います。禁止条約の6条、7条には、被害者支援と環境回復が明記されています。国が禁止条約に参加しない理由が、ここにもあるように感じます。「広島の黒い雨」訴訟の地裁判決で原告が勝訴しても、国は被爆者として認めていません。福島原発事故の責任と同じ構図です。
核被害に10年の節目はありません。セシウム137の半減期は30年です。被ばくを逃れ、避難を続けることも、被害者として生きることも、今も続く被害です。
今後、節目ができるとすれば、それは国が国策の失敗を認め、被害者にしかるべき賠償をし、原発政策を改めたときだと思います。(写真は本人提供)
(「しんぶん赤旗」2021年3月10日より転載)