福島市渡利に住む佐藤愛子さん(65)は、9月30日、「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の控訴審判決の報告を宮城県民会館で聞きました。原告、支援者たちと結果を待っていました。
■先人に思いはせ
「勝訴」「再び国を断罪」「被害救済前進」。判決内容を伝える3本の旗が掲げられました。愛子さんは、「良かった!」と、安堵(あんど)しました。
先人たちのたたかいの存在が大きく感じられました。四十数年前に福島県の沿岸部に原発建設が持ち上がった当初から建設反対をかかげてたたかった人たちがあったのです。
生業訴訟第2陣原告の愛子さん。「今度は私たちの番。さらに前進した判決を勝ち取りたい」と心に刻みました。
原告に加わったのは、国も東電も、法的責任を認めず、謝罪もせずにいるからです。
愛子さんが住む福島市渡利地区。事故直後は放射線量が毎時2・22~2・67マイクロシーベルトを記録する線量の高い地域でした。
「避難すべきか」「とどまるべきか」。県外に避難した時のリスクと、残ったときのリスクを家族で検討した結果、避難しないことを選択しました。
新日本婦人の会福島県本部などは放射線量計の確保、通学路の線量計測、食品の安全調査、小学校、中学校の校庭の除染などに取り組みました。佐藤さんにとって、体験したことのない作業の連続でした。計測した放射線量をマップにして住民に配布し、被ばくを避けるように促しました。あれから9年半。「アッという間に過ぎました」
愛子さんは福島県の南部、西郷村に生まれました。父親は農家の三男。父は、国鉄に入り機関手として誇りを持って働いてきました。「福島から東京までの駅名を諳(そら)んじていました」
愛子さんは、福島大学教育学部で保健・体育を学びました。
70年代、憲法や平和、安保、自衛隊が国政の争点でした。そんなときに「改めて憲法前文を読み衝撃をうけました。大学卒業後の進路を決める大切なポイントとなりました」。
「安保反対、憲法擁護」などの課題に取り組む中で新日本婦人の会福島県本部の専従職員となりました。1987年ごろ福島原発にプルサーマル導入の問題が浮上。原発反対の運動にもかかわりました。
■判決を力に次へ
「3・11」の時は福島県議会議員選挙の前で、選挙事務所にいました。中学校の卒業式があり、子どもたちが事務所に避難してきました。「子どもたちと住民の命と健康を守るたたかいがはじまりました」
9月30日の仙台高裁の判決に励まされて次に進む心構えを固めています。
「原告が強く求めていた原状回復の訴えや、自主避難の権利が重視されていないことなど不十分な点はあります。賠償基準の抜本的見直しが必要です。判決を足がかりにして国と東電に、これまでの公害事件で繰り返されてきた目先の利益優先の姿勢を変えさせる。判決をテコにして真の復興の課題に真剣に取り組ませていきたいです」(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2020年10月19日より転載)