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福島に生きる 福島市の農家 渡辺邦恵さん(81) 戦争・原発 二度の苦難

 福島市に住む渡辺邦恵さん(81)は、2011年3月11日の東日本大震災のときは畑にいました。

 稲作3反、リンゴの木30~34本、モモの木44本の兼業農家です。

 春の摘果、夏の消毒、秋の収穫と出荷と1年を通じて手間のかかる農作業です。

 「3・11」のその時「急いで家に戻りましたが、家屋の被害はありませんでした。頑丈に造られていたのですね」。東京電力福島第1原発事故で放射性物質がばらまかれましたが、畑の除染は根を傷めるのが心配で行わず、放射線量は高いままです。

■孫の健康が心配

 9年を過ぎた福島の農家。「県の農産物価格は、大震災前の7割程度にしかもどっていません。私の弟の家族は新潟に避難したまま今も戻っていません。私には3人の孫がいます。小学6年生、4歳、1歳です。この子らの健康が心配です」

 渡辺さんが住む近くには「水質日本一」の荒川が流れています。

 誇りに思う「日本一の清流・荒川」ですが、清流も原発事故で汚染されました。荒川のアユ、ヤマメ、フナなど一部の淡水魚は、「食するのには安全とは言えない」状況が続いています。

 「国策で二度も苦難を背負わされた」という渡辺さんは戦争体験者です。

 1946年10月、7歳のときに旧「満州」(現在の中国東北部)から引きあげてきました。

 渡辺さん一家は、満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)として中国に渡ったのです。開拓団に参加した福島県民は約9500人。長野県についで多く、日本政府の国策によって推進されました。戦争が終わるまでの14年間で27万人が中国北東部などに移住したと言われています。

 渡辺さんの父親は、開拓団の本部長を務めていました。団員からも、中国人からも信頼されていました。

 45年8月9日未明中国東北部などで開始されたソ連軍の侵攻。この時も、父親は現地住民から保護されてシベリアに抑留されることなく無事に日本に帰国できました。

 「過酷な逃避行で、食べ物がなく赤ちゃんは『足手まといになる』と、殺されました。祖父と妹が亡くなりました。戦争では人間が人間として扱われない。帰れたのは、私のほかに祖母と両親、父の妹で、舞鶴に着きました。戦争は絶対にだめです。人間でなくなってしまいます」

■上告せず救済を

 「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告の渡辺さん。「先の戦争での苦難。そして、原発事故での損害も国の国策による犠牲です」と強調します。

 「国は原発再稼働をなにがなんでも推進しようと必死です。阻止しないといけないと思っています。全国の全ての原発をなくす。みんなの願いです。9月30日の仙台高裁での控訴審判決で国と東電の責任は明確になりました。国と東電は上告を断念し、ただちに救済に踏み出すべきです」

 (菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2020年10月11日より転載)