伊藤敏寛さん(70)は、福島市飯野町でシイタケの栽培をしていました。今もJAふくしま未来福島地区の椎茸専門部会長をしています。
飯野町は、福島県伊達郡の南部、阿武隈高地北部の丘陵地域に位置し、古くから農業とともに養蚕業が盛んで絹織物業が発展しました。2008年7月1日に隣接した福島市に編入合併され、福島市飯野地区となりました。
飯野町に隣接する飯舘村は、2011年4月22日に全村避難が決定されました。飯館村の村民の多くが飯野町など福島市に避難してきました。「こりごりだ」と、過酷な避難生活から飯館村に戻った人。長い避難生活で飯野町に定住した人とさまざまですが、「放射能の脅威」に今も苦しんでいます。
伊藤さん自身、「頭が真っ白になるほどの事態だった」と、当時をふりかえります。
40年以上続けてきたシイタケ栽培ができなくなったのです。タケノコ、山菜など山の幸が軒並みとれなくなりました。年2000万円ほどあった直売所の売り上げはなくなりました。やむなく、閉鎖せざるをえませんでした。
■いまだ再開できず
原発事故から9年6カ月たっても原木シイタケ栽培はいまだに出荷停止、再開できずにいます。
1本300円から500円で販売してきた原木の販売収入もなくなりました。「全国から福島に買いに来ていたのが来ない。終わりです」
菌床栽培が「人工栽培」と呼ばれるのに対して、原木栽培は「自然栽培」と呼ばれています。
「福島の原木は栽培に適していると人気でした。福島はナラの木、クヌギなど原木が育つ気候に適している。寒すぎず、暑すぎない。伐採して10年後にはまた育つ」
キノコの放射能検査は今も続いています。「検査、検査で気苦労は続いています。原発対応に明けくれています」
福島原発から50キロ離れている飯野町。「こっちまで(放射能が)来るという感覚はなかった」と伊藤さん。「放射能に対する備えはもともとなかった地域。町内で避難すべきか議論したものの結論が出ない。何もできなかった」
伊藤さんは福島市に合併されるまで、飯野町の日本共産党議員を6期務めてきました。飯野町の高齢化は、原発事故でいっそうすすみました。
現在、伊藤さんは、在宅介護サービスを行う「やすらぎの郷いいの」の理事長を務めています。
■生活できるように
運営では「一人ひとりの人格を尊重し自主性を重視したサービスを提供すること、一人ひとりの家庭環境にあわせた生活ができるように支援すること、一人ひとりの生きがいのある毎日のため心のふれあいを大切にすること」を基本にしています。
「原発の放射能の脅威は半永久的です。政府の原発推進の方針を変えなければだめだ。再稼働するなど恐ろしさを感じる」
「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告の伊藤さん。「国のエネルギー政策を変えるしかない。東電に最後まで責任をとって賠償させる」。30日の同訴訟控訴審判決に期待を寄せています。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2020年9月25日より転載)