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3・11原発事故から9年 福島県立博物館特集展・・「震災遺産を考える」

 餓死した牛たちを思い「無念」の碑を建てた牧場主。避難所で子どもたちのために臨時学級をつくった教員…。2月から始まった福島県立博物館の「震災遺産を考える」特集展は、地元の人たちの9年間の苦悩と願いがつまっていました。

(都光子)

ふるさと伝え続ける人たち 酪農家・元教員…「負けん!」の思い

 特集展の最初は牛舎の柱のレプリカ。「上の方が本当の太さ。食べるものがなくて柱をかじりながら死んでいったことがわかります」と学芸員の筑波匡介(ただすけ)さんは説明します。

 南相馬市で酪農を営んで40年の半杭一成(はんぐい・いっせい)さんの牛舎で起こったことを聞き、協力を求めて柱のレプリカを作成。今回初めて博物館で展示しました。

 半杭さんから、東京電力福島第1原子力発電所の事故後3カ月たってやっと県の許可が出て入った牛舎が地獄絵図を見ているようだったこと、その思いから「無念」の文字を刻んだ碑を建てた話を聞き、展示の解説にしました。

 「もう牛を飼うことはできない、と言っていました。しかし、これからのためにと、県内で牛用飼料の一大供給地づくりを始めています」と筑波さんはいいます。

臨時学級の経験

 南相馬市小高区の小学校教員だった金谷清子さん。避難所となった旧相馬女子高校内に臨時学級を作り、学校再開までの1カ月弱奮闘してきました。

 展示されているのは「ふくしまニコニコ元気組」という張り紙や臨時学級を担当したボランティアの先生たちの記録ノート、段ボールで作った子どもたちの名札、「みんなの夢」の寄せ書きなど。

 「金谷さんは、『鉛筆と紙があれば人間の心を取り戻せる』と言っていました。子どもたちの不安を日常の学校生活を作り出すことで緩和できたという話を聞くと、子どもの心のケアがいかに大事かわかります」

拓本160点以上に

 原発立地自治体で、今も多くが避難指示区域の大熊町。町民だった鎌田清衛(きよえ)さんは、町内につくられる中間貯蔵施設の予定地内にある石碑や看板を、拓本のように、オイルチョークでこすって写しとります。フロッタージュという方法です。その数160点以上。そのうち約30点が展示されています。

筑波さん。後ろは「ユーチューバ−になりたい」「パティシエになりたい」「博物館の人になりたい」など今の福島の子どもたちの夢が書かれています。

 鎌田さんは、毎回一時立ち入りの許可をとり、防護服を着て作業。町特有の風が吹き荒れるときは妻の助けを借りたといいます。

 「石碑や木に触っていると何か伝わってくる」と鎌田さん。文字を刻んだ人の苦労や喜び、願い、祈りを後世に伝えたいと話しています。

 「富岡は負けん!」の横断幕を国道6号の歩道橋に掲げた平山勉さん。2011年8月でした。「自分の内側からの意思表示」だとインタビューにこたえています。「平山さんは、みんなが避難した直後の町の様子を動画で撮影していました。同時に、その日、津波で行方不明になった人がいたことをあとになって知り、何かできることがあったのではないかという悔いがあるからこそ、今できることに向きあっています」と筑波さんは説明します。

本当の復興思い

 平山さんは原発事故直後から「富岡インサイド」をウェブサイトにつくり、15年に双葉郡未来会議を結成。18年には双葉郡内8町村の情報を集めた「ふたばいんふぉ」をウェブ上に開設。情報収集・発信だけでなく地域がつながる場になっています。

 筑波さんは今月はじめ、ウクライナのチェルノブイリ原発を初めてみてきました。「周辺は廃虚となっていました。一方で外部の人が企画したと思われるツアーに人が集まっていました。本当の復興とは何か、考えさせられました。あのとき何が起こったのか、そしてそれをどう乗り越えたのか。災害で命が脅かされることがないように、地元の人たちの営みも記録し、残し、伝えていきたい」

 特集展は4月12日まで(会津若松市城東町1の25)。観覧無料。午前9時半~午後5時(最終入館4時半)。毎週月曜休館。

(「しんぶん赤旗」2020年3月11日より転載)