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福島に生きる 津島裁判を支える会共同代表 吉川一男さん(79)・・地元で支援の輪つくる

 新日本教育書道院顧問で浪江町津島裁判を支える会共同代表の吉川一男さん(79)は超多忙な日々を過ごしています。

 勤めていた銀行を定年退職後は「自分ペースで趣味のソバ打ちなどをして暮らそう」と考えていましたが、東京電力福島第1原発事故はそうした思惑を一変させました。

 福島第1原発から65キロ離れている福島県郡山市の自宅付近は毎時3・5マイクロシーベルトを記録。自らも被害者になりました。

 「基本的知識がないと東電や国との交渉もかみ合わない」と、放射線衛生学を学び、第3種放射線取扱主任者の資格をとりました。誰もが認める勉強家です。

 郡山市には福島県沿岸部の避難指示区域から避難者が殺到しました。市内には大規模な仮設住宅がつくられました。「3・11」以来、吉川さんの救援、支援の活動は9年目になります。

■口に出せない

 「原発事故被害者は、怒り、苦しみ、悲しみを口に出せなくなりました。被害者と一緒にたたかうのは周りのわれわれの仕事」と話します。

 吉川さんは1940年、郡山市に生まれました。

 中学・高校と書道に専念しました。「平和であってこその書道」を信条とする新日本教育書道院の2代目主幹を務めました。縦社会の書道界で、安くて自由で実用的な民主的書道を創造していこうと活動しました。

 県立郡山商業高校を卒業後に大東銀行に入り、従業員組合中央執行委員長になりました。郡山地方労働組合総連合議長、日本国民救援会福島県本部副会長を務めました。

 銀行員当時は、労組にたいする分裂工作、弾圧、村八分と「弾圧のデパート」といわれる激しい攻撃を受けました。

 吉川さんは単身赴任などなかった当時、結婚直後に夫婦別居配転を強いられても不屈にたたかい、後に“郡山の『沈まぬ太陽』(山崎豊子の小説)”と称賛されました。地元の中小企業に寄り添う銀行経営と「金融の民主化」を旗印に活動しました。

■絶対的な信頼

 福島原発浪江町津島訴訟原告団の馬場績さんは吉川さんについて「何でも相談にのってもらえます。熟達した市民運動家です。心根の優しい方。絶対的な信頼をおいています」と言います。

 吉川さんは、「きちっとした判決をとる。大きな支援の輪を地元でつくる。われわれの責任です」と、国と東京電力に原状回復と完全賠償を求める津島裁判を支える会結成を呼び掛けて、2月4日に結成し、共同代表に就任しました。

 「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発損害賠償訴訟の原告で、県中原告団相談役も務めます。

 「悔いのない生き方だったと言えるように生きたい。安心安全に暮らせるためにはこのままたたかいを止めるわけにはいかない」。熱い思いでいっぱいです。(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2020年2月25日より転載)