東京電力福島第1原発事故からまもなく9年。今でも多くの住民が避難生活を強いられています。福島県浪江町津島地区で暮らしていた志田昭治さん(67)もその一人です。志田さんには、忘れられない言葉があります。
■いつ戻れるか
福島市内で開かれた原発事故についての説明会。「いつ津島に戻れるのか」という住民からの質問に、環境省の担当者は「100年はかかります」と、躊躇(ちゅうちょ)なくのべました。
志田さんは危機感を抱きました。「衝撃でした。『生きているうちには帰れるだろう』と淡く思っていたのが粉々に打ち砕かれました。父親は6年前に『帰りたい』という願いもむなしく亡くなりました。私の津島の家の前は今も毎時1・9マイクロシーベルトの放射線量が記録されています。自分たちは棄民され、村は廃村になる」
志田さんの両親は、戦後に津島地区に入植しました。開墾した土地でコメづくり、炭焼きなどをして貧しい暮らしに耐えながら一生懸命働き、4人の子どもを育てました。
中学を卒業後に首都圏や三重県などに出稼ぎに出た志田さん。自動車工場や建築現場で働きました。給料は、自分の生活費を除いて全て家に入れました。
20歳を過ぎて津島地区に戻りました。福島県大熊町にある養鶏の会社に勤務。壊れやすいタマゴをトラックで決まった時刻までに郡山市まで運ぶ仕事でした。「36年間働きました」
長女が5歳、長男が3歳のときにわけあって離婚。子どもを引き取りました。「子育てでは、地域の方々に助けられました」
志田さんは、300年前から津島地区に伝わる県の重要無形民俗文化財の「津島の田植踊り」の「鍬頭(くわがしら)」を務めてきました。
田植踊りは、五穀豊穣(ほうじょう)、無病息災、家内安全を願い、稲作の作業過程を歌と踊りで表現する伝統芸能です。「鍬頭」は田植踊り全体の狂言まわしの役割をします。
原発事故は、代々伝承されてきた田植踊りを次の世代に伝えていくことを難しくしました。担い手がバラバラになったからです。
■荒らされた家
志田さんは、「ふるさと津島を追い出された悔しさを晴らしたい」と、国と東電に原状回復と完全賠償を求める浪江町津島訴訟(今野秀則原告団長)の原告に加わりました。
現在は、避難先の大玉村に住んでいます。「今、除染の仕事しかないです。原発事故の後始末までわれわれにさせる。それは私らにとって屈辱です」
無人化した津島地区の防犯パトロールもしています。月5回、年間60回の仕事です。「津島を見ることができます。故郷に触れることができます。一方、がっかりすることにも出合います。ネズミやイノシシに荒らされた家。原発事故で生まれ育った津島に放射能という毒をまかれた。一日も早く住めるようにしてほしい」(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2020年2月11日より転載)