福島県伊達市霊山(りょうぜん)町の菅野喜男(かんの・よしお)さん(77)は、約100本の柿を育て3~4トンのあんぽ柿と、ハウスイチゴを生産する農家です。日本共産党旧霊山町議を7期、54歳まで務めました。
■3年間柿廃棄
「あんぽ柿は放射能汚染で、原発事故後2~3年間は廃棄しました。3反ほど米を作っていますが、今も作物から放射性物質の軽減をはかるとされる塩化カリをまいています。東京電力や国にこのまま黙っていたら百姓のこけんに関わります。おもしゃくねえ。ごせやける(腹が立つ)」
菅野さんは「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告になりました。「福島地裁では勝ちましたが、控訴審でも勝ちたい」と話します。
菅野さんが腹を立てていることは、原発再稼働を推進していることと、「安倍首相が憲法を改悪し、再び戦争をする国にしようと画策していること」です。
霊山町の戦没者は「満州事変」から太平洋戦争まで602人に上ります。「同じ戦争の道を歩むことはできない」と、今年10月、『戦争とむらと人々と』と題した冊子にまとめました。当時の日本共産党霊山町委員会が発行する「民主りょうぜん」に1981年から86年まで47回にわたって連載した、戦争体験の聞き書きを復刻したもの。
■「返してけろ」
福島弁でそのまま表現しています。
▽「冬吉あんちゃんの遺骨をもって村葬にでていった。あんちゃんは支那で首に貫通弾をうけ、両下肢には破片が食い込み、日本に送られて飯坂の病院にいた。そのままでいればいいのに、『癒(なお)った』と、ガダルカナルに運ばれて、そこで死んだ。骨壷(つぼ)に骨など入ってなくて砂だけだった。ひどい目にあって死んだんだと思う」
▽「ただない。『オヤジ死んで金もらえていいべえ』なんていうのを聞くと本当にゴセやけて『父ちゃんは好きでいったんでねぇ。引っ張らっちぇたんだ。父ちゃん、元にして返してけろ』っていいたくなるない」
菅野さんは、戦争が終わった時は3歳でした。戦争体験者への聞き取りをするにあたって、戦争史の資料を集めました。「誰ひとりからも戦争をたたえる言葉は耳にしませんでした。加害については語りたがらなかった。どんなことでも残しておかないと風化してしまう。同じ過ちはくりかえさせないという心構えを持ち続けてこそ、平和の世を不動にできるのではないでしょうか」
先の戦争も、原発推進のエネルギー政策も国策で進められた―。「『だまされた』と平気でいると今後もだまされるでしょう。原発事故の最大の責任は国や東京電力にあることは確かですが、『だまされた』ですましていると、また同じように誤りをおかすのではないか。原発事故からわずか8年余。風化など絶対許されません」と強い思いを語りました。(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2019年12月11日より転載)