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福島に生きる いわき市民訴訟原告 遠藤利恵子さん(69)・・子の未来 原発ゼロに

「子どもの未来のために原発ゼロへ」と訴える遠藤利恵子さん

 「つらく重いことが次々と起きた8年半でした。けれどもこのままではいけない。負けない。『命ある限り頑張ろう』と踏ん張ってきました」。福島県いわき市の遠藤利恵子さん(69)は、そう振り返ります。

■親子2代保育士

 親子2代にわたって保育士として働いてきました。東日本大震災のあった「3・11」の日。「この世の終わり」と思われるほどの恐怖を感じる強い揺れが襲いました。子どもたちは泣き叫び、迎えに来た親にしがみついていきました。

 「3・11」後の3月13日になって遠藤さんは、長男の妻の実家のある福島県平田村に避難しました。その後長男家族は、7歳と5歳の孫の健康が心配で2カ月新潟県に避難しました。

 「生きていたならば、また会おう」。そのときの別れの言葉はそんな悲壮感のにじんだものでした。

 いわき市内は多くの人が避難してゴーストタウンのようになりました。

 働いていた保育園は3月21日まで自宅待機。22日から職場にでました。3月18日の卒園式は、「卒園児のために必ずやってやろう」と4月6日に延期。翌4月7日の小学校の入学式になんとか間に合いました。園児たちはマスクをして外には出さないようにしました。水はミネラルウオーターを使いました。

 そんなときに、次女が妊娠しているのが分かりました。「妊娠を娘から告げられた時に『おめでとう』と言いましたが、一方では不安でした」と当時の心境を語ります。

■失われた「育ち」

 そして保育園では園児の散歩が無くなりました。「あれもダメ。これもダメ」と外にも出られず、「禁止の多い生活を強いられ、子どもにとってもつらい生活だったと思われます。特に外遊びができなかったことで、精神的にイライラする子が増えました」。

 転びやすくなったり、肥満の子が増えたり、雑巾がけですぐに疲れたり、よじ登ること、駆け上がることが苦手。「体力が落ちているのを強く感じました」

 いわき市民訴訟(伊東達也原告団長)の原告に加わったのは、「子どもには3歳だったら3歳のときに身につける『育ち』があります。原発事故によって失われた『発達課題』を考えると、福島県の子どもたちの未来がとても不安になりました。二度とこんな事故を起こしてはいけない」と思ったからです。

 「孫たちの甲状腺検査で再検査を言われました。言いようのない恐怖を覚えました。今も不安はとれていません」

 「被災者一人ひとりが立ち上がれるように完全賠償させないといけない。国と東京電力に責任を認めさせて福島を見捨てさせない」。そんな思いが原告になることを後押ししました。

 遠藤さんの母親も保育士でした。いま、「すべての子どもの未来のために原発ゼロ」への強い思いでいます。

 (菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2019年10月11日より転載)