福島市に住む佐藤輝道さん(71)、まささん(69)夫妻は「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告です。
「3・11」のとき、生後1カ月になる孫たちがいました。放射能の影響が心配でした。「避難すべきか。とどまるべきか」―。悩んだ末にとどまることを選択しました。
3・11後に長女が妊娠していることが分かりました。まささんは「本当に産むの」「もしも影響があったらどうするの」と、心配でした。産む、産まないの決断は苦渋の選択でした。「産まれてくるまで心配でしたが、無事に産まれてホッとしました」と、8年前を振り返ります。
■生業訴訟原告に
同居中の次女家族のために窓は閉め切った状態で、洗濯物も外に干しませんでした。小学1年生だった孫が「閉め切った部屋にいたためにぜんそくになってしまいました」と、まささんはいいます。
家族みんなが苦しんだ体験から生業訴訟の原告に加わった輝道さんは元国鉄工事局の技術者でした。
佐藤さんが国鉄で働いてみようと思ったのは、川に橋を架ける工事を見学したことからでした。川をまたぎ、線路が延びていき、全国を一つに結んでいくさまは感動的でした。土木科の勉強をして旧国鉄に入社しました。
佐藤さんがかかわった仕事は難工事がたくさんありました。東北新幹線の大宮・盛岡間工事では100人を超える死亡事故が起き、東北新幹線の中間地点にあたる福島市の信夫(しのぶ)山には「慰霊碑」があります。
3・11のとき夫妻は自宅にいました。原発事故が起き、60キロ以上離れている福島市内ならば大丈夫と高をくくっていました。
三女が住んでいた家は放射線量が高い福島市渡利地区にありました。新築2年目の家は2階が高線量のため使えませんでした。孫を預けている保育園も同じ地域にあり、不安が増しました。
■不安増すばかり
「娘の妊娠を心から喜べなかった親の心境を分かりますか」と問いかけるまささん。「市内に設置されている放射線量のモニタリングポストの数値を目安に生活しています。甲状腺調査で孫の結果は、しこりやのう胞が見られる状態。不安は増すばかりです」
生業訴訟原告の佐藤夫妻は「仙台高裁は、5月に現地検証をすることになっています。現場をよく見て公平な判断を下してほしい。国の責任を認めなかった千葉地裁の不当判決をはね返す勝利判決を勝ち取るまで頑張ります」と語っています。(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2019年4月11日より転載)