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共に生きる 独に見た脱原発の道・・福島の生業訴訟原告 松本友子さん(24)

母親(左)とドイツを視察する松本友子さん

 「福島の復興にかかわりたい」―。松本友子さん(24)は2年前、大学時代をすごした長野県から福島県に戻ることを決意しました。「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告でもあります。

高校部活中

 2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故時、福島県立高校の2年生でした。合唱部で歌の練習をしていたときでした。部活は中止に。楢葉町にあった自宅に帰ることができました。

 楢葉町は全町避難となり、家族全員でいわき市内の小学校の体育館に避難。その後、相双民主商工会事務局長の父親を残し、横浜市に避難しました。父は民商会員の安否確認や原発事故の賠償交渉などで避難できませんでした。「お父さんはなぜ一緒に避難してくれないの」。当時は不満に思いました。

 1年後、長野県内の大学に入学しました。母は横浜に、祖父は東京に避難。家族4人バラバラの暮らしになりました。祖父は急激な環境の変化で希望を失い、体調を崩しがちに。15年に85歳で亡くなりました。

 そんな中、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告に親子で加わりました。

 大学卒業近くになると、多くの級友らは「長野で就職したらいい」と勧めてくれました。でも、「福島の復興にかかわりたい」と17年に、福島に戻りました。

 故郷の楢葉町は今も、除染で出た土などを入れる黒いフレコンバッグが山積みされたまま。同町に戻った人は30%未満です。

 福島が真に復興するためにも日本のエネルギー政策を見直すべきではないか―。松本さんは昨年、生業訴訟の中島孝原告団長らとドイツを訪問しました。

 ドイツは、福島原発事故をきっかけに、エネルギー政策を根本的に転換しました。事故から4カ月後には、22年末までの原発の全廃を法制化したのです。事故前までは、17基の原子炉があったドイツ。1980年以前に運転を始めた7基をただちに停止させ、トラブルで止まっていた1基は廃炉にしました。

 「ドイツで脱原発の人たちと交流できてよかった」と松本さん。「国や東京電力に怒りをぶつけてもいいんだ。青年の要求で社会は変えられる」と確信しました。

未来見つめ

松本友子さん=ドイツのフランクフルトにて

 事故当時、高校生だった松本さん。「子どもを産んでもいい年齢になりました。次の世代のために安心して生きられる地球を残したい」と未来を見つめます。

 民主青年同盟福島県委員会の委員長でもあります。同世代の仲間たちの働かされ方はひどいと強調します。

 「仲間は準社員で月収が8万円とか9万円とかの低賃金。残業代もでません。その上、安倍自公政権は消費税10%への引き上げを狙っています。9条改憲はとめたい」

 こんな政治を変革したいと思っている仲間はたくさんいると、力を込めます。(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2019年1月21日より転載)