「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」原告団の相談役を務める三瓶宝次さん(82)は、11月30日に開かれた第15回口頭弁論で、こう意見陳述しました。
「このままでは浪江町津島地区が消滅してしまう。夜も眠れません。どうかこの現状を直視していただきたい」
裁判長に向かって諭すように訴えました。法廷は静まり返りました。
三瓶さんは、1993年に周囲から推されて浪江町議選に自民党から出馬し、初当選。その後6期24年間、町議を務めました。町議会議長も務めました。
2011年の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの日々を「常に津島のことが頭から離れなかった」と振り返ります。
「国や東電の対応を見て、このまま黙っていたのでは津島地区が切り捨てられる」と感じ、日本共産党の馬場績(いさお)町議と相談。「原発事故の完全賠償を求める会」を立ち上げました。その後「求める会」が母体となり原告団を結成し、国と東電に完全賠償と原状回復を求めて裁判をたたかっています。
「国策として『安全だ』『安全だ』といって原発建設がすすめられた。私たちも『原発は安全だ』という先入観があり、『地域振興のためならば』と、議会として建設を認めた経緯がある」。苦渋の思いを語ります。
戦争体験のある世代。終戦間際に空襲があり裏山に避難しました。戦争が終わったときは9歳でした。
戦後、食料事情が悪く、苦労しました。農家でしたが冷害で、田1町歩から米3俵しか収穫できないこともありました。
豆、カボチャ、ジャガイモなどを食べて飢えをしのぎました。
戦争被害と震災・原発被害の二つの人災を体験した三瓶さん。「戦中は苦しくても自然の中で自給自足ができた。土地さえあれば、食料は確保でき、水は山からの恵みもあり、熱は薪でとれる。山、川、畑、田んぼ。基礎的な条件はある。生き延びられる地域だった。原発事故はすべてを奪った」
「3・11」事故直後は、国からも、県からも、東電からも何の情報なく、大混乱でした。町内から避難してくる約1万人の町民を住民総出で受け入れました。農家を回り、炊き出しのための米や野菜を提供してもらいました。14日の夜、津島も危ないという情報が入り、15日朝、関係者協議により二本松市に避難することを決断しました。
後になって分かったことですが、すでに原発事故の際に放射性物質の拡散を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEEDI=スピーディ)が津島地区全域に放射能が降ることを示していたのです。その後津島地区は、帰還困難区域となってしまいました。
津島地区住民の所在が分かる330世帯のうち300を超える世帯が原告に加わり、国と東電の責任を問うたたかいにたちあがりました。
「古里を返せ」の一点で党派を超えてたたかっています。(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年12月20日より転載)