福島県相馬市本笑(もとわろう)でイチゴ栽培を35年以上取り組んできた岩本知子さん(69)は、東日本大震災のとき家にいました。縦揺れと横揺れが長く続き、屋根瓦が音をたててくずれ落ちてきました。
隣の家の住人は、子どもを小学校に迎えに行きましたが「大きな船が二小(中村第二小学校)のところまで流されて来ている」とあわてて帰ってきました。
近所の人たちと墓地のある高台まで避難しました。高台から見た本笑の景色は一面水で覆われ真っ白になっていました。
石油ストーブを持ってくる人もいて、暖をとりました。
電気やプロパンガスは使えましたが、水道は10日間使えませんでした。近所にもらい水の日々が続きました。
■いまだ続く避難
3月12日と14日に福島第1原発1号機と3号機が爆発。南相馬市原町区から次女の家族6人が岩本さん宅に避難してきました。10日間避難していました。その後、次女の家族は山形県に避難、現在も避難したままです。
岩手県大船渡市に住んでいた妹の夫の母親など親せきが津波で亡くなりました。
岩本さんは、温室や温床などの設備を使わず露天の耕地で作物を栽培する露地栽培からはじめました。その後、ハウス栽培に取り組み、大小10棟までハウスを拡大しました。章姫(あきひめ)、さちのか、とちおとめなどのイチゴを栽培。野菜よりは収入があり、夫は出稼ぎに出なくてよくなりました。
イチゴのビニールハウス7棟が大津波で塩害にあいました。海水を被った全部のイチゴが枯れてしまいました。
岩本さんのイチゴを販売する観光イチゴ園は、日本百景の一つの松川浦近くにあり、ここも全部が流されました。
■熟れても売れぬ
残った場所で栽培を継続しましたが「イチゴは赤く熟れても販売手段がない。放射線量を検査して、暫定規制値を下回ったためあちこちの避難所に持って行き食べてもらいました」といいます。
岩本さんはコメ作りもしていますが、田んぼには海水が入りました。2011年5月から塩化カリウムを散布して田植えをしました。収穫時には放射線量を検査して出荷しました。
4月、5月からボランティアが来て、壊れたビニールハウスの片づけやヘドロの片づけをしてくれました。
周囲のイチゴ農家10軒ほどが震災後に栽培をやめました。観光イチゴ園には最高時には年間3万5000人ほどの来客があったのが1万3000人に減りました。
岩本さんは言います。
「放射能の被害がなかったならば、と思うと、残念でたまりません。外国の人たち、全国の方々、福島のことを知ってもらい応援をしてもらいました。前向きに生きることがこれからの人生だと思います。原発事故さえなかったらと強く感じています」(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年12月15日より転載)