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福島に生きる 生業訴訟原告 尾形ミチ子さん(72)・・夫の遺志継ぎ原告に

「原発ゼロまで頑張る」と語る尾形さん

 福島市松川町に住む尾形ミチ子さん(72)は10月1日、仙台高裁であった「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の控訴審の第1回口頭弁論を傍聴しました。

 「法廷に入るのは初めて。原告の意見陳述や原告代理人の弁護士の陳述は心に染みました」。一方、被告の国の代理人の陳述は、「誠実さがない。早口で何を言っているのかも分からなかった」と感想を語る尾形さん。3年前に原告だった夫が亡くなり、裁判闘争を引き継ぎました。

 この日、仙台高裁で陳述した原告は、南相馬市小高区出身で、福島市松川町に避難していたときからの尾形さんの知り合いです。

 静まった法廷に響くりんとした声。「75歳になりました。自分がこれから生きられる時間は決まっていると思っています。5年区切りで、この小高で何ができるだろうかと考えています。避難指示が解除されて、ようやく小高にもどれても、孤独や不安に耐えて生活しなければならない。原発は罪つくりなことだと思います。国や東電は、責任を持って賠償を支払い、あらゆる策を講じるべきだと思います」。避難者たちの思いを代弁した陳述でした。

■信念貫徹の姿が

 尾形さんの夫は、東芝の関連会社で働き、モーターの心臓部を造ってきました。尾形さんも同じ職場で働いていました。弟も東芝関連企業で働き、福島第1原発で働いていました。原発事故が起きて、「外に出るときには放射能を避けるものをかぶれ」と教えてくれました。

 戦後最大の謀略事件の松川事件(1949年)。東芝松川工場はその舞台となりました。松川事件で被告にされた仲間の支援に奔走した夫。尾形さんは、夫の信念を曲げない、思ったことはまっすぐに貫徹する姿に信頼を置いてきました。夫は万年ヒラ社員でした。「アカと言われ、ひどい仕打ちをうけましたが頑張り通しました。誇りに思っています。みんなが平和になることを願ってやっていた」

■避難者との共同

 東日本大震災で福島原発事故が起きました。「濃い7年半となりました」

 近くの体育館は、南相馬市や浪江町などの浜通りからの避難者であふれました。

 レクリエーション・インストラクターの講習を受けた尾形さんは、避難所にでかけてボランティアで炊き出しや体操、ゲーム、歌などで楽しい時間をつくれたらと思い、通いました。

 近くの松川工業団地跡地に大規模な仮設住宅が造られ、飯舘村や南相馬市からの避難者が移住してきました。

 「地元の人たちと避難者との懸け橋ができれば」と、仮設住宅に通い、要望を聞き支援しました。

 「かーちゃんの力・プロジェクト」で活動してきました。飯舘村、葛尾村のかーちゃんたちが避難先のかーちゃんたちと共に活動するものです。避難地域の状況、帰村に向けての取り組みなど、かーちゃんが「今」の福島を語ります。

 飯舘村の避難指示解除に伴い、かーちゃんたちはプロジェクトを卒業し、それぞれの道で活動を続けています。

 「夫は生業訴訟の第1陣の原告で、判決を聞くことはなりませんでした。遺志を継いで、原発ゼロまで頑張ります」

 (菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2018年11月2日より転載)