東京電力福島第1原発事故で帰還困難区域に指定された福島県浪江町津島地区の住民たち―。武藤晴男さん(61)、多恵子さん(60)夫妻も自分たちの古里に帰ることができないで7年半が過ぎました。晴男さんは、国や東電に原状回復と完全賠償を求めた「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」原告団(今野秀則原告団長)の事務局長です。
津島地区に避難指示が出たのは2011年3月15日。国や福島県は、緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)で放射線量が高かったことを分かっていたのに、住民には公表が遅れました。
避難指示が出て、武藤さん夫妻は、両親と息子の5人で、福島県本宮市の避難所にたどり着きました。そこは高校の体育館。身体障害者の父には厳しい環境で耐えられませんでした。「寒くてトイレも外。5日間居たものの、埼玉県のおじの家を頼りました」。その後、茨城県取手市のUR住宅、福島県鏡石町、郡山市などを転々としました。
■悲しみの7年間
多恵子さんは89歳と80歳の両親の介護と、たび重なる避難で疲労困ぱいして体と心を病んでしまいました。「薬を飲む生活。この7年間は悲しみしか残らなかった。友人とも別れ、仕事もなくしました」
津島で生まれた晴男さんは18歳のころ上京し、東京で出会った多恵子さんと結婚。35年前に津島に戻り、電気器具を作る会社に勤め、その後独立し、業績も順調でした。
東日本大震災は、会社で仕事中のときにおき、激しい揺れに見舞われました。足の踏み場もなく部品が散らばりました。社員全員の無事を確認して、「明日片付けよう」と全員を帰宅させました。しかし、社員との再会は果たせませんでした。その後、帰還困難区域となり、帰れなくなったのです。
人生かけて起業した晴男さん。「宝物を奪われた思いです。心も砕かれた」
■沈黙していては
東京電力の本社などと個別に交渉してきましたが、らちが明きません。「原発事故の完全賠償を求める会」に参加し、上京して直接交渉したものの東電からは満足な回答は得られませんでした。やむなく津島原発訴訟原告団を結成、裁判を決意しました。
「これだけの事故で被害があっても被害者の声が加害者に届かない。黙っていてはいけない。必死でした」
晴男さんは原告団事務局長に推されました。「約700人の原告一人ひとりに裁判の意義を浸透させ、理解してもらえるか。それが大変です」
多恵子さんは「東電の社長をはじめ、えらい人たちは私たちが味わっている苦しい暮らしを体験してみてほしい。お金を払ったら謝らなくていいのか。心からの謝罪をしてほしい」と訴えています。
「津島の伝統や文化、自然豊かな暮らし。失ったものが大きすぎます。半面、津島の人たちとの連帯の気持ちができました。失ったもの、得たもの、同等ではありません。失ったものは大きすぎる」と言う晴男さん。
「国策といえども、個人の財産を一方的に奪うことが許されるものでしょうか。日本を代表する方々であれば、もう一度立ち戻り考えてほしいものです」(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年10月11日より転載)