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福島に生きる・・生業訴訟第2陣原告 俳人 菅野サキさん(79)/廃炉まで目を離さずに

「孫たちのためにも原発ゼロを」と訴える菅野サキさん

 福島市松川町に生まれ育った菅野サキさん(79)は、1949年8月に起きた謀略・弾圧事件、松川事件のことを今も覚えています。

横転した機関車

 「その日、サイレンが鳴り、周辺を見渡すと火の気は見えませんでした。『機関車がひっくり返っているぞ!』の声で松川駅の方向へ走ったんです。現場は、祖母が生まれた所に近く、機関車が蒸気を噴いていました」

 サキさんは「小学校4年生でした」と言います。「家族らからは(松川事件のことは)しゃべるな」と口止めされました。

 サキさんは新俳句人連盟福島県支部の会員です。

 同支部には2013年7月、93歳で亡くなった元松川事件被告団長の鈴木信(まこと)さんも名を連ねていました。俳句仲間です。

 隊列に無実つたわりどよめきの帯

 拘置所の闇の裏声五郎助ほうほう

 赤とんぼ稲子も消えたコンクリトの街

 凍り付く瓦礫のさけび耳鳴りの夜

 鈴木さんの俳句です。

 今年3月に発行された「『二〇一一・東日本大震災原発事故』を詠む」にはサキさん作の次の句が載っています。

 廃炉まで目を離さずに寒静寂

 他にサキさんが福島原発事故について詠んだ俳句には、

 白鳥わたるフレコンバック派手な彩

 凍大根自然の恵み染み込ませ

 などがあります。

放射能が心配で

 サキさんが俳句を作るようになったのは10年前に原発労働者だった夫が亡くなってからでした。「(夫を亡くした)空白を埋めるためにやってみたのが俳句でした」

 夫は、川崎市の日立造船で溶接工をしていました。1949年から始まった、アメリカ占領軍の指示で日本共産党や支持者に対する無法・不当な解雇を強行したレッド・パージにあって、自営業となり、福島県にある東芝の関連企業の北芝電機関連の仕事に就いていました。北芝の下請けとして二十数年、福島原発で溶接の作業に携わってきました。「夫の健康は不安に思ってきました」

 俳句は、同じ町の丹野ミサ子さんの指導を受けました。月1回の俳句会に参加しています。

 2011年「3・11」の時は、「いつもと変わらぬ朝が来て、昼に買い物。産直の店にいました。突然、激しい揺れで柱にしがみつきました。近所からみんなが集まり大騒ぎになりました」。

 浜通りの知人の2~3家族がサキさん宅に避難してきて数週間同居しました。

 当時同居していた長女の家族も「2人の孫の健康が心配となり」長女は横浜市へ転居していきました。「切ない」といいます。

 子等は去り月が子守の雪だるま(サキさん作)

 サキさんの実家は農家でした。サキさんも畑を耕して野菜を作っています。「放射能のことが頭から離れません」

 「地域を返せ、生業(なりわい)を返せ!」福島原発訴訟の第2陣の原告に加わりました。

 「孫たちが健康を害してがんになったらと不安です。絶対に原発をなくし、自然エネルギーに代えさせるために頑張りたい」

 (菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2018年8月26日より転載)