「まだ7年。何も終わっていません」。いわき市民訴訟原告の滝沢伸江さんは、強い口調でそう言います。
東海第2原発の再稼働“適合”判断、関西電力大飯原発差し止め訴訟の原告敗訴。「激しい逆流が起きている」と顔を曇らせます。
いわき市に生まれ、大学を卒業するまで福島県に暮らしました。
福島大学で児童文化研究会に所属し、人形劇の地方公演活動にとりくみました。人形劇団プークの研修に参加するなど人形師にあこがれた時期もありました。
人形劇の夢を捨て切れず、地域でサークルを作り、子どもたちに見せて回りました。
東京で教員となり、人形劇を生かした授業も工夫しました。
忘れられる不安
東日本大震災の前年、2010年9月に両親の介護のためにいわき市に戻りました。
「3・11」の日。立っていられないほどの強い揺れで、テーブルの下に潜り込みました。余震が繰り返し続き、テーブルの下から出られない時間が長く続きました。
翌12日、東京電力福島第1原発が水素爆発して多くの市民が避難。街から人が消えました。
滝沢さん夫妻は、年老いた母を置いて避難することはできず、いわき市に残りました。「人影の消えた街で私たちのことが忘れられてしまうのではないか」と「心細かった」と7年前を振り返ります。
「肌をさらさないこと」「雨に当たらない」「帰宅時に家に入る時には衣服を払って入ること」
伊東達也さん(いわき市民訴訟原告団長)から避難せずにいわき市にとどまった人へのアドバイスのメモがファクスで届きました。
「ありがたかったです」。そして、東京の仲間たちの励まし、全国からの救援、炊き出し、給水活動。「みんなで支え合う。頼れる仲間がいる」と、気持ちが落ち着きました。
市民全体の問題
45年ぶりに戻った故郷「浜通り」には、10基もの原発が建設されていました。しかし、「深くは考えてこなかった」という滝沢さん。原発事故が起きるまで、故郷の抱える問題に向き合ってこなかった自分に大きなショックを受けました。
以前から原発ノーを訴えてきた伊東さんや早川篤雄さん(福島原発避難者訴訟原告団長)らが立ち上げた、低線量被ばくの被害救済と国と東電の責任を明確にする市民訴訟の原告に加わりました。「市民全体の問題だ」と共感したからです。
いわき市に戻ってきた責任の重さを感じている滝沢さん。「原発事故の原因も分からない。責任も明確にされない。原発事故処理が何年かかるかもはっきりしない。いわき市民訴訟で勝訴してきっぱりとこうした問題に決着をつけます。今福島に住んでいる者の責任として原発ゼロに歩みを進めなければいけない。やることは山ほどあります」。滝沢さんはそう言います。
「いわきの街はどんどん変わっています。周辺の地域から避難してきた人。原発作業員。もともと住んでいた人たちと入り混じってさまざまな問題も起きています」。いわき市の現状を見据えて故郷で活躍しています。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年7月18日より転載)