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福島に生きる・・きれいな津島に帰して

 

浪江町津島訴訟原告牧場主 古山 久夫さん(62)

牛に餌をあげる古山さん=いわき市

 「あまりにも私たちをバカにしている」と、怒り心頭なのは福島原発浪江町津島訴訟原告の牧場主・古山久夫さん(62)です。

 国の直轄の除染で出た放射性廃棄物の仮置き場の建設計画が浪江町南津島地区に持ち上がったのです。そこは、古山さんが避難前に住んでいた津島地区の隣に接する約27万平方メートルの場所です。

 津島地区の住民たちは、東京電力福島第1原発事故のあった2011年3月11日、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)で、放射線量が高かったことが分かっていたのに、まったく知らされませんでした。避難が遅れただけでなく、他地区から避難してくる町民でごった返したのです。

 そんな苦難に加えて廃棄物の仮置き場を南津島地区に造ろうとしているのです。

■無我夢中の7年

 古山さん一家は、原発事故で、浪江町からいわき市三和地区に避難し、畜産を約80頭で再開させました。長男の優太さん(33)と親子での経営再開です。

 敷地の造成や哺育(ほいく)舎・肥育舎の基礎工事を自主施工し、新牛舎を建設しました。現在では、地元の稲作農家との耕畜連携による飼料確保もできるようになりました。

 将来的には、肥育牛60頭、繁殖牛200頭規模への拡大を考えています。浪江町では、5町5反を所有し、牛舎2棟、事務所、堆肥舎などが立ち並び、津島地区員大規模の500頭の牛がいました。原状回復までは至っていません。

 「7年間は無我夢中だった」と、必死で再建のために働いてきました。「俺がやらなくて誰がやる」と、大黒柱としての責任を果たしてきました。

■殺処分回避で涙

 古山さんは、父親の代に津島地区に開拓として入植しました。長男が家業を継がないことから、神奈川県で鉄工所に勤務していた次男の久夫さんが帰郷して継ぐことになりました。21歳のときでした。

 それから約40年。「もう少しで花が咲き、安定する」ところで原発事故に遭遇してしまったのです。

 2011年3月14日、3日間のエサを牛に与えて、二本松市にいったん避難しました。しかし、置き去りにしてきた牛が心配で自宅に戻りました。

 備蓄していたエサは1週間で底をつきました。栃木県の繁殖業者から支援を受けて、丸ごと移動できる牧場を探しました。

 同年5月になって、数百頭は飼育可能な牧場がいわき市に見つかり、トラック5台で2日間かけて移動しました。

 「殺処分も覚悟していましたから、それが回避できて涙がこぼれました」

 86歳の父親、87歳の母親からは「津島に帰ろう」と、迫られます。「津島にいたころは、自宅には、毎日のように訪問客がありました。いわき市の避難先は山奥です。訪れる人もいません。『津島に帰りたい』。その思いは一日も消えたことはありません。国は『生かさず殺さず』です。私たちをきれいな津島にして帰してほしい」(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2018年5月11日より転載)