福島県南相馬市に住む管野英明さん(58)は、浪江町、大熊町、楢葉町など同県双葉郡をエリアに表札、印鑑、機能性表示食品などを行商する自営業者です。
「ゆくゆくは店を持って営業する計画でいましたが、その可能性がゼロになりました。長年培ってきた人間関係が断たれて店を持つことは困難になりました」と言います。
東日本大震災が起きた2011年3月11日、英明さんは相馬市で行商中でした。
「家族のことが心配で家にもどり、当時高校生だった長女を迎えに行きました」
■「うちへ帰っぺ」
兄の宏之さんと、当時80歳の母、キヨエさんは新潟県胎内市に、兄の妻は宮城県蔵王町にそれぞれバラバラに避難しました。英明さんと妻、4人の子どもは一時、避難しましたが、南相馬市に戻りました。
「古里を消されてしまった」と、宏之さんは母や妻とともに、避難先で国と東電を訴えた「福島原発避難者救済新潟訴訟(新潟地裁)」の原告に加わりました。
母親は脳梗塞で倒れ、新潟県新発田市で入院。その後介護施設に入居しました。
「母はずっと『うちへ帰っぺ、うちへ帰っぺ』と言っていました。避難生活のストレスもあったと思う」と、英明さんは考えています。母は14年に亡くなりました。
訴訟手続きによらない紛争解決方法のADRに申し立てたものの、母の死は、原発避難との因果関係が認められませんでした。
■疑問から怒りへ
英明さんは今年3月に「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟第2陣原告に加わりました。
「個人で東京電力と交渉してもらちがあかない。電話中なのに東電は一方的に電話を切る。加害者としての自覚がなく、あまりにも高圧的な態度だった」と、その理由を語ります。
英明さんを知る生業訴訟第1陣原告の荒木貞夫さんは「真面目で正義感の強い人。このままでは道理が通らないと思って原告に加わった」と話します。
英明さんは「東電の責任ある人が、なぜ母の慰謝料が認められないのか、賠償のあり方について説明するのならば耳を傾ける。ところが東電の担当者からADRへの申し立てを取り下げるように言われた。人が亡くなっている。初めは疑問からだったが、怒りになった」といいます。
英明さんだけでなく、妻、4人の子どもたちも原告になりました。
「誰かがリーダーシップをとらないと泣き寝入りになってしまうと考えて全員が原告となりました。国は原発の再稼働を次々と進めています。負けたくない。負けたら母の死が浮かばれなくなります。国と東電は過失を認めてほしい。被害者の生活再建につながる判決を求めたい」と、英明さんは力を込めました。(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年4月24日より転載)