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東日本大震災・原発事故7年・・前へ懸命に & 医療費減免が切実「国が支えるべきだ」・・災害公営住宅 宮城・石巻 & 「風化させない」各地で追悼

(写真)被災地で追悼
原発事故直後の避難で、津波の行方不明者捜索が打ち切られた福島県浪江町請戸地区。墓前に花を手向ける家族の姿がありました。後ろには津波被害で更地になった土地が広がります=3月11日

 「もう7年、まだ7年。少しずつでも前へ進みたい」―。2万2千人以上が犠牲となり、復興庁調査で7万3千人以上が避難生活をおくる東日本大震災、東京電力福島第1原発事故から7年を迎えた3月11日、列島各地で朝から犠牲者を追悼する人たちの姿が見られました。岩手、宮城、福島の各県では地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、さまざまな追悼行事が催されました。遺族らは思い思いに亡き人をしのび、静かに目を閉じ手を合わせました。

医療費減免が切実「国が支えるべきだ」・・災害公営住宅 宮城・石巻

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の被災者の暮らしの心配ごとの一つが医療・介護の負担です

 「今お金の面で災害公営住宅の入居者が困っているのは医療費の問題です」と話すのは、宮城県石巻市の三浦清志さん(69)。同市南境地区の仮設団地で、NPO団体などと協力して民謡鑑賞や芋煮会などを開いています。「医者にもなかなかかかれない世帯もある。家賃が払えなくなって滞納し始めている世帯もいくつかあると聞きます」といいます。

 国は震災直後に、国庫負担で被災者の医療費の窓口負担を免除する制度を実施しましたが、1年後に打ち切り。宮城県では現在、市町村が負担し継続する形に後退しており、2018年度も継続することを決定しているのは宮城県では2自治体(3月11日現在)のみです。

 石巻市では17年度まで約6000人の被災者を対象に医療費減免を継続していましたが、18年度は継続されません。

 同市蛇田地区の災害公営住宅に入居する年金暮らしの男性(71)は「厚生年金は積み立ててきたお金なのに所得扱いにされて家賃が高くなります。首や肩が悪くて通院が欠かせないので、出費ばかり増えます。新しい家に入れれば人間らしい生活に戻れると思っていたけど、実際はまだまだだった。減免がなくなるのは当事者には致命傷」と苦境を訴えます。

 党市議団は市議会で、復興基金を活用すれば被災者医療費窓口負担の減免は可能と、継続を訴えています。

 党宮城東部地区委員会の鈴木実地区委員長は「医療費も家賃もどちらも同じ家計から出ます。家賃減免の延長は喜ばしいことですが、現状維持であって引き下げではありません。医療費は実質、利用者が手元から出すことになるので、さらに生活が大変になります。国が財源的に責任を持ち、被災者と被災自治体を支えるべきです」と話しています。

心重いけど踏ん張る・・「風化させない」各地で追悼

震災で失われた多くの命に思いをはせ、海に向かって黙とうする人たち=3月11日、岩手県宮古市田老地区

 「7年たつが、思いだすと心が重い。それでも、もう一踏ん張り」-。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から7年の11日、岩手、宮城、福島の各県で遺族らが犠牲者を追悼しました。

海に向かって■岩手・宮古

 高さ10メートルの防潮堤を乗り越えた津波で、181人が死亡・行方不明となった岩手県宮古市の田老地区では、遺族ら約300人が手をつなぎ、防潮堤の上から海に向かって犠牲者を悼みました。

 「この子をおばあちゃんに一度だけでも会わせてあげたかった」。震災後生まれの6歳の娘を連れた会社員の山本英貴さん(41)=宮古市=は、亡くなった祖母の遺影を手に、こみ上げる思いを語りました。

 復興の取り組みは長期に及ぶとして、政府には期限を切らず被災地への支援を継続してほしいと語った山本さん。「亡くなった人たちの分まで生きて、震災のこと、自分が経験したことを子どもたちや、後世に伝えて絶対に風化させないようにしたい」と力を込めました。

 7年前、田老地区に実家があった舘葵衣(たち・あおい)さん(29)=宮古市=は、この日の朝、2歳の長女に津波の話をしたところ真剣に聞いてくれ、被災した場所を実際に見せたいと思い、長女と一緒にきました。葵衣さんは、がれきに埋もれたふるさとを目にした当時の衝撃を思い出して涙を抑えきれず、「この子が大きくなるまで、津波の怖さと多くの人が亡くなったことをしっかり伝えていきたい」と話しました。

「思いを発信」■宮城・石巻

 宮城県石巻市の「石巻住まいと復興を考える会連絡協議会(住まい連)」は、被災者が自宅を改修して開いた喫茶店「カフェら・めーる」で「3・11鎮魂のひろば」を開きました。青空のもと、約50人が集まり、海に向かって黙とうしました。

 東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センターの金田基事務所長は、「被災者一人ひとりに寄り添ってこの地域で生きていくことを真剣に考えなければならない時期だと感じる。やれることを頑張っていきたい」と述べました。

 住まい連の鈴木実共同代表は「被災者の皆さんが、じぶんたちの力でやっている追悼式はなかなかありません。震災の事実を次の世代に伝える役割として、鎮魂のひろばが続いてほしいと思います」と述べました。

 石巻市で中学校の社会科の教員をしていた石垣就子さん(64)は、歌で震災の事実を伝える活動をしています。「被災地の思いを、少しでも発信できたらと思って活動してきました。歌を通して被災地のことを思い出してもらうきっかけになればと活動しています」と話しました。

原発なければ■福島・浪江

 福島県浪江町請戸(うけど)地区にある太平山霊園には、朝から遺族らが追悼に訪れていました。同地区では東京電力福島第1原発事故への対応で捜索、救助が断念されたことが被害の拡大を招きました。

 母親をなくした叶谷(かのうや)朝子さん(58)は「夫と夫の母親、私の母親と息子とで暮らしていました。母を一刻も早く捜したかったのですが、放射能が高いから入れないと拒まれて見つかったのは3ヵ月後。原発さえなかったら早く捜索できたのに悔しい。夫も津波で流され、自力で次の日に助けられましたが、ビショビショに濡れ、低体温症で危うい状態でした。東電はきちんと賠償すべきです」と語っていました。

 吉田陽子さん(67)の夫は家にいてそのまま津波に流されました。吉田さんは「夫は5月に見つかったけど傷一つなくそのままの顔だった。当時赤ん坊だった孫が1年生になり、7年たったんだなと思う。親戚がばらばらになってしまったけどしょうがない。前に進むしかない」といいます。

 母親を亡くした漁師の柴野隆さん(56)は「いつになったら元に戻れるのか。請戸で水揚げができれば一番うれしい」と話しました。

(「しんぶん赤旗」2018年3月12日より転載)