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福島に生きる・・故郷あれどオリのよう

 

 

浪江町津島訴訟原告 佐野久美子さん(58)

「私たちのような被害は二度と起こしてはなりません」と話す佐野久美子さん

 「かけがえのない故郷・津島がこれだけの被害を受けて、何もしないでいるわけにはいかない」

 佐野久美子さん(58)が東京電力福島第1原発事故で壊された故郷の原状回復と損害賠償を国や東電に求めた、福島県浪江町津島訴訟の原告(2015年9月提訴)に参加した思いです。

 浪江町津島から福島県内の大玉村に避難して7年近くになります。「故郷はあるんだけれども、墓参りにも自由に行くことができない。おりに入れられているよう」で、心は安らぎません。

■豊かな自然の中

 15歳で栃木県の富士通工場に就職し、30歳のとき津島に戻り、結婚しました。

 春は、タラの芽、ワラビ、フキなどの山菜を食べ、田植えのころは、ドジョウやフナを捕って遊び、グミの実や野イチゴ、桑の実を食べて楽しみました。夏は夜空の星の輝き、ホタルの幻想的な光の帯。秋はアケビ、豆柿、キノコ、カエデやモミジの紅葉。群れ飛ぶ赤トンボ。冬はかまくら、ソリ滑り。佐野さんが生まれ育った浪江町津島。その豊かな自然の懐に抱かれて暮らしてきました。原発事故はそれを根こそぎ奪いました。

 2011年3月11日。立っていられない揺れに襲われました。地面と車が大きく波打ち、電線がうねりながら音をたてました。

 「原発が危ない」。とっさに叫びました。

 小学6年生の時に学んだ広島原爆の恐ろしさを思い出しました。国語の教科書に載っていた「黒い雨」(井伏鱒二著)に書かれていた、原子爆弾や放射能の恐ろしさが鮮明によみがえりました。

 故郷の山や川、田んぼや畑に放射性物質が降りました。

 山林は自宅から20討の範囲しか除染されません。山は暮らしの場なのに放置されたままです。

 11年3月15日、二本松市の太田住民センターに夫と避難。借り上げ住宅を経て、大玉村に移住しました。子どもたちや孫は、福島市、本宮市、神奈川県、東京都に避難してバラバラになりました。

 現在、母親は91歳になります。原発事故前は毎日まきを割って風呂のたき付け、田畑で農作業をしてきましたが、原発事故以降、認知症を発症。慢性硬膜下血腫などで2回の入院。右足にマヒが残り、歩くのが不自由になりました。

■事故がなければ

 「原発事故さえなければこんな障害を負うことはなかった」

 4年前から大玉村でトルコキキョウを育て、農協と直売所に出しています。高冷地の津島でリンドウの作付けをして売ってきた経験を生かしました。

 「故郷・津島を出されても、いた」と子どもや孫に言われたいからです。

 原発の再稼働か進められています。

 「とんでもないことです。私たちと同じ思いをする人を出してはいけない。二度と原発事故被害者をだしてはなりません」(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2018年2月2日より転載)