患者の声に背押され

 

 福島県相馬郡のJR常磐線新地駅の近くに昨年夏、新地町で初の精神科「新地クリニック」が開かれました。開院から4ヵ月余。待合室では、コチョウランとふんだんに使った木の香りが患者さんを迎えます。

 東京電力福島第1原発の事故で休診を余儀なくされた南相馬市の小高赤坂病院(精神科、渡辺瑞也院長)がこの地に移転し、6年半ぶりに診療所として再スタート。再開を待ちわびた患者さんたちが、遠方の避難先からも訪れています。

 「病院と同じ医療圏に診療の場をつくれてほっとしました。長年やってきた仕事に戻れてうれしい」。渡辺さん(75)は柔らかな笑顔をみせます。

 医師は診療所長の岩渕健太郎さん(49)と2人。渡辺さんは週2日午後診療し、20人近くを担当。その9割は原発から18キロの地にあった病院で診療していた患者さんです。事故後転々と避難したこと、バラバラになった家族のこと―。話にじっくりと耳を傾けます。

津波の被害を受け、海抜6メートルにかさ上げした町有地に立つクリニック

 ゆかりさん(49)は、2週間に1度電車を乗り継ぎ、避難先の福島市から片道1時間半かけて通院しています。パニック障害などに苦しみました。

 「長年渡辺先生に診てもらい日常生活が送れるまでになりました。再開を聞いたときはうれしくて跳び上がった」と声を弾ませます。

 30年近く共に働いた看護師の門馬幸子さん(61)は今回復職しました。「いたんですねえ、と患者さんが声をかけてくれる」とほほ笑みます。

続いた苦闘

岩渕さん(手前)と渡辺さん

 2011年3月。小高赤坂病院は創立30年記念事業の準備中でした。そこを襲った東日本大震災と原発事故。病院には104人の入院患者がいてこっち56人は要介助(寝たきりや車いすでの移動)の人でした。避難指示を受け大混乱のなか、全員を無事に県内外の病院に転院させるのに1週間かかりました。

 先が見えない休診。再開を模索し、奔走する日々。仙台で病院の勤務医をしていた岩渕さんは、渡辺さんの講演で事故後の苦闘を聞きました。「避難指示や損害賠償のことなどあまりに理不尽だと思った」と。力になれればと「再建するなら手伝わせて」と申し出ました。

 14年度末、渡辺さんは岩渕さんらと病院の移転再開を構想しました。しかし、県の補助金の大幅減、経済産業省と東電の賠償打ち切り方針で見通しが立たなくなり、断念。再開を待ち望んでいた在籍職員45人を断腸の思いで解雇せざるを得ませんでした。

 築いてきたものすべてを奪われ、重なる心労-。

 病院再建が無理ならまず診療所でと、気持ちを切り替えてまもなく、渡辺さんに結腸がんが見つかりました。

体験を本に

診療の再開を喜ぶゆかりさん(手前)と看護師の門馬さん

 「この体験を書き残さなければ。原発の根源的な恐ろしさ、理不尽さを伝えたい」。手術後、被災事業者から見た賠償問題など東電と国の事故対応の非情な実態を著書『核惨事!』にまとめました。

 渡辺さんの体調は安定し、クリニックも徐々に軌道にのってきました。将来的には、軽作業などを行えるディケアの開設も構想しています。

 「被災地の精神科医療は大きな困難を抱えています。地元の医療機関とも連携し、認知症の診療などをも含め力を尽くしたい」。地域医療への抱負を胸に、新しい年が始まりました。(西口友紀恵)

(「しんぶん赤旗」2018年1月4日より転載)