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南相馬 柳美里が出会う㉚・・今に続く8月6日、3月11日

 

小説家の小山田浩子さん(右)と

 小説家の小山田浩子さんと初めて会ったのは、2年前のウィーンでした。「文学の秋」というイベントに共に招待されたのでした。

 3日間にわたるプログラムを終えて、他の小説家(辻仁成さん、中村文則さん、青山七恵さん、ドリアン助川さん)は、観光のために旅程を延ばすということでしたが、わたしと小山田さんは日本へと向かう飛行機に乗りました。

 座席番号を見て、わたしたちはぎくりとしました。2人だけの席に隣同士だったのです。16時間の長旅です。食べたり、飲んだり、寝たり、本を読んだり、原稿を書いたり、トイレに立ったり―、気を使い合って疲れるのではないかと不安になったのですが、実際は、不思議なほど気になりませんでした。小山田さんはノートにメモをし、わたしはiPhoneで新書のゲラの手入れをしていました。

 「春になったら、南相馬に来てください。東北の春は5月。5月から梅雨入り前ぐらいがいい季節です」とわたしは言いました。

 「行きたいです。行きます」と小山田さんは言い、羽田空港で別れました。

 社交辞令ではないか、小山田さんは3歳になったばかりの娘さんがいるし―、と思っていたら、今年の6月に小山田さんは南相馬にやって来ました。彼女は小高駅前の双葉屋旅館に2泊し、わたしは小高や浪江や大熊を案内しました。東日本大震災と原発事故を経験した地元住民にも会ってもらいました。

 最終日に、小高で農業を営んでいた夫の兄が避難先で自殺をした、という70代の女性の話を聴いた後、小山田さんは深々とうなじを垂れて眼鏡を取りました。

 「知らなかった……いえ、なんとなく知っていて、知ったつもりになっていた自分に腹が立つ」

 小山田さんは、広島で生まれ育ち、広島で結婚して子どもを産み育てています。

 「わたしは広島の外で暮らしたことがないので、わたしにとって、世界というのは広島のことなんです」と彼女はウィーンで語っていました。

 11月半ばに広島に行きました。小山田浩子さんのお母様の母校である広島市立袋町小学校を訪れました。爆心地から460メートルの場所にあった袋町国民学校の西校舎の一部が資料館として保存されているのです。二人で窓辺に立ち、原爆投下以前から同じ場所に在る校庭で遊ぶ子どもたちの中に、あの日、朝礼の最中に校庭で命を落とした160人の教職員と子どもたちの姿を見ていました。

 そして、この今には、あの今―8月6日午前8時15分と3月11日午後2時46分が含まれている、過去の出来事は、石を投げた時に水面に広がる波紋のように今も広がり続け、決して消えることはない―、そんなことを考えながら、わたしは広島から南相馬に帰って来ました。

(ゆう・みり作家写真も筆者)(月1回掲載)

(「しんぶん赤旗」2017年11月27日より転載)