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“第1原発事故6年専門家に聞く”技術思想への反省ない・・東京大学名誉教授(金属材料学) 井野博満さん

 あれだけの事故を起こしながら、技術思想についての反省がまったくなく、小手先のテクニックの議論だけがなされています。

 技術思想とは、個別の技術の問題と同時に、だれがどうやって、何を目指しているのかということです。人や体制にかかわるのです。しかし、電力や規制機関、大学も含めてそこの反省がない。そういう意味では、事故前と全く変わっていない。

不確実どう見る

 原発をめぐる、一見技術的な論争の背後には技術思想の違いがあります。例えば、大きな地震が起こるか起きないか。起きた場合、装置が壊れるのか壊れないのかというところに不確実なところがある。その不確実なところをどう見るのかという問題です。

 どんな技術もリスクゼロでは無いのだから、原発にリスクゼロを求めるのはおかしいという主張があります。確かに社会は、橋を架けるときにも医薬品や飛行機を使うときもある程度のリスクを容認しています。

 しかし、それは原発の技術的特異性を考慮していない主張です。原発は、福島事故で示されたように事故が起きた場合の影響の大きさや収束の困難さが決定的に違います。

 さらには、原発は実験で安全性を確証することが困難な技術でもあります。実験自体が大きな危険を伴うため、コンピューターシミュレーションに頼るしかないことが多く、実際にシミュレーション通りになるか不確実なことが多いのです。

 原発は、放射能の危険があります。原発を容認する社会とは、放射線の被ばくを容認する社会です。

 原発による一般公衆の平常時の被ばく許容量は、年間1ミリシーベルトとされています。しかし、「許容量とは利益と不利益とのバランス」で決まるのなら、原発の運転で利益を得ることのない周辺住民の許容量はゼロのはずです。

世論という希望

 さらに福島では、年間20ミリシーベルト以下の地域であれば市民が生活していいとされています。僕が研究していたころもそうだが、年間5ミリシーベルトを超える恐れのある場所は放射線管理区域に指定され、放射線管理手帳がないと入れず、飲み食いもできない。福島の現状は全くのダブルスタンダードです。

 そもそも事故が起きていない状態の原発でも、労働者の許容量は年間50ミリシーベルトです。そうでないと成り立たない産業なのです。

 そんななかで、希望を持てることもあります。高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じた大津地裁の決定は「このような備えで十分であるとの社会一般の合意が形成されたといってよいか、躊躇(ちゅうちよ)せざるを得ない」と述べています。原発に対する世論が、決定の後押しになっています。技術の実現やその是非を市民とともに決めていく社会的システムをつくり上げることが必要です。 (おわり)

(「しんぶん」赤旗2017年3月28日より転載)