東京電力福島第1原発事故から6年。いまだ溶けた燃料は取り出せず、がれき撤去などの工事作業にともなって汚染したほこりが飛び、山林は除染できずにいます。放射能から子どもを守るために避難を続ける母親たちの姿をおいました。
(都光子)
帰れといわれても危険
東京都内で
「4月以降、玄関に張り紙をはられるのではないか、水を止められるのではないかと、不安でいっぱいです」
涙ながらに発言したのは、東京都内に住む40代のかずえさん(仮名)です。2月末、東京都内で開かれた「打ち切るな! いじめるな! 第6回広域避難者集会」。子連れ参加者が目立ちます。
国と福島県は避難区域外の避難者にたいするみなし仮設住宅の提供について、これまで毎年更新していましたが、今月末で打ち切る方針です。
東京都は都営住宅への入居優先枠を設け、4月からはそちらに移るように呼び掛けています。かずえさんは「都営住宅への入居を希望するには、避難住宅の返還をし、住民票を移さねばなりません。避難を続けているのに、避難者ではなく移住者にされてしまうのです。避難者が減れば、被害が誠ったように見える。国の被害隠しに加担したくない」と語ります。
福島県いわき市にある家はローンを払い続けています。「帰れといわれても・・」。自宅の土は、今でも1平方メートルあたり数万〜数十万ベクレルあります。
「私は放射線管理区域で子育てはできません」
子どもは9歳と14歳になりました。「鼻血が出ていると言っても気のせいだといわれたり、情報が届かず5歳児健診を受けられなかったことを責められ、後悔したこともありました。危険だから避難しているのに″自主″避難とされるのはつらい」
かずえさんは国と東電に責任をとってもらいたい、と強調します。「私は横浜で育ちました。子どものころは空気も川も汚れていましたが、今は見違えるほどきれいです。それは公害を訴え、裁判をして汚した企業の責任を明らかにし、法規制を作らせてきた運動があったから」といいます。かずえさんは福島原発被害東京訴訟の原告団として裁判に訴えています。「原発事故は天災ではないんです。国と東電
は避難者を避難者と認めて補償・賠償をしてほしい」
埼玉・川越市で
埼玉県川越市に住む鈴木直子さん(43)は、いわき市から2歳と7歳の娘を連れて事故直後の3月15日深夜に車で避難しました。「放射能による被ばくと娘たちが将来、結婚出産で差別や偏見で苦しまないように既成事実を作るため、3ヵ月のつもりで避難した」と言います。
いわき市では近所同士のつきあいも深かったという鈴木さん。川越市に落ち着いてから、1人の主婦が立ち上げた交流会「ここカフェ@川越」を始めました。「住民票どうする」「学校の手続きは」といった悩みや心配事、福島の思い出話など、お茶を飲んだりランチを食べたりしながら交流を深めています。埼玉県内のママたちがつながって季節ごとに『お手紙ですよ ぽろろん』という冊子も作成し、配っています。
「4月からの住宅補償打ち切りでは、事実上、福島に戻るか移住かの選択肢しかない。本当は人災で国と東電の責任なのに理不尽です」と鈴木さん。「原発事故後、人生が大きく狂いました。避難継続は未来ある子どもたちを守るため。一人ひとりの選択を尊重してほしい。原発はまだ収束していません。子どものために、子どもを守るママたちのために活動を続けます」
子ども守り続け
相模原市で
東京電力福島第1原発から60キロ、福島県大玉村(人口8500人超)から実家の相模原市に避難している鹿目久美さん(49歳)。結婚後、自然豊かな大玉村にログハウスをたて、なるべく電気に頼らず薪ストーブを置き、娘ははだしで庭を駆
け回る暮らしでした。
幼稚園の人図式間近という日に、大きく地面が揺れました。4歳の娘が「トランポリンみたいだった」というほどです。そして原発事故。震災1週後から1ヵ月間ほどは「福島からの避難者として発信しつづけます」と鹿目さん実家に避難しましたが、入園式のため、自宅に戻ることを選びました。
幼稚園も予定通り始まったこともあり、しばらくたてば安全な日がくるのではないかと思った鹿目さん。一方で不安は募り、外に出るときは必ずマスクをつけ、外遊びもさせませんでした。
「ママ、私たちのほうが変な人みたい」。5月も過ぎると、マスクをする人を見かけなくなりました。
「病気になってほしくないので、マスクをしてね」と伝えました。それから娘はマスクを自分からしてくれるようになり、ホツとしました。
その後「私よりも過剰に反応する娘を見て限界を感じた」といいます。鼻血がなかなか止まらず、2階の寝室の空間線型を測ると0・5〜0・6マイクロシーベルト/時もありました。8月、実家に避難することを決断。夫は仕事があるのでログハウスに一人暮らしとなりました。
″実家に避難しているからいいよね″と言われたことがありました。
「たまたま元気な母がいて、経済的に弟が支えてくれているので、身を寄せることができた。実家避難も楽ではない」といいます。大玉村の自宅との二重生活。経済的な負担に加えて、すぐに相談できないし、夫とは気持ちもすれ違い・・。「夫との関係は悪化していきました。娘の健康への心配も尽きることはありません」
外遊び思いっきり
住民票は大玉村に残していますが、事故前の状態にならない限り戻れないともいいます。「大玉村では天の川も流星群も本当にきれいに見えます。蛍も舞います。娘は湧き水で育ちました。福島の土地が娘の土台を育んでくれました。それが一瞬にして奪われた。それが一番悔しい」
我が子を守るために必死だった鹿目さん。最近になって気持ちが変化してきたといいます。「いま、言いたいことを言えない、生きづらい社会になっています。何かいえばバッシングを受けたりします。でもいろんな人がいて、困った時、苦しい時は声に出していいんだという社会に変えていきたい。そのために避難者という立場で話し続けたい」
鹿目さんは、安心して外遊びができない福島の親子を呼ぶ「保養キャンプ」の活動にかかわっています。
相模原市の「母ちゃんず」です。幼稚園のママ友有志が2012年春に活動を開始。福島からの参加者は無料です。これまで13回のキャンプを実施し、のべ623人を超える親子とキャンプを楽しんできました。
代表の竹内亜紀さん(45)は、「一日でも長く放射線量の低い場所にきてほしいと思って、キャンプ場所を探しました。4泊5日しかとれなかったけれど、思いっきり外で遊ぶ子どもたちの姿を見て、親たちはすごくうれしそうなんですよ」といいます。「最初は放射能の話を避けようとしたこともありましたが、福島のママたちに話したいことを話してもらって、息抜さしてもらえることが大事だと実感しています。放射能の半減期は長いでしょ。まだまだ何年も続けていきたい。どの子もたくさん外遊びをして、心も体もすくすく豊かに育ってほしい」
(「しんぶん赤旗」2017年3月11日より転載)