
福島県伊達市保原(ほばら)町の大槻善造さん(78)は「戦争も原発もない社会を早く作らなければならない」と思っています。
戦争が終わった1945年8月15日、「やっぱり負けた」と思いました。
終戦直前に召集された父親は、本土決戦のための鳥島や八丈島など国内配備になりました。兵隊は、薬師様(城ノ内薬師堂)や保原高校に駐屯。「本土を守るだけになった」ことを子どもながらに感じていました。
「竹やりで突撃訓練をした。銃剣とラッパを盗んできて決戦に備えた」ころの少年の思い出。「5機編隊のB29の来襲。震えが止まらず『こんどこそ終わりだ』と覚悟した」といいます。
「勝っている」「勝っている」と国民を欺く大本営発表に翻弄(ほんろう)された戦中の体験は、「秘密保護法は廃止させなければいけない」と、戦争をする国への逆戻りに反対しています。
■人気だった行商
大槻さんは中学卒業後、石材業など土木建築を行う仕事に。親がやっていることを手伝いながら覚えました。27歳のときに独立し、「十数人ほど従業員を使っていた時期もあった」そうです。
零細の自営業の大槻さん。少ない年金を補わないと厳しい暮らしです。6年前から無人販売所を設置してモモや野菜を販売してきました。さらに、ワゴン車に仕入れたモモを積んで新地町、相馬市松川浦などに行商に出て収入を得てきました。「20箱持ってきてほしい」などと大槻さんの行商販売は人気でした。
保原町は肥沃(ひよく)な土壌で福島県北の穀倉地帯。リンゴ、モモ、カキなど果樹栽培が盛んで、質の良いモモは「福島のモモ」の評価を全国に高めています。
■戦争ない社会を
東京電力福島第1原発事故は、モモの産地を直撃。販売ができなくなり、大槻さんのささやかな暮らしの支えを奪いました。「原発なくせ 完全賠償させる県北の会」に相談して損害賠償を請求。その結果、請求額に近い80万円を獲得しました。
好きだった海釣りも渓流釣りもできなくなり、4人のひ孫の健康も心配です。
「先がないのに原発問題を心配して生きていかなければならない気持ちを、わかっかい」と問う大槻さん。
「徹底した除染をやってほしい。原発事故は人災です。賠償すれば終わりだというわけにはいかない。孫やひ孫に何をやってあげられるか。戦争のない社会。原発ゼロ、再稼働をさせない・・。じいちゃんの役割です」
(菅野尚夫)