今朝(2月25日)は、9時半に南相馬の自宅を出て、車で浪江町の請戸漁港へと向かいました。
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3月末に浪江町の一部の避難指示が解除されることをうけて、約6年ぶりに、係留先の南相馬市鹿島区の真野川漁港から請戸漁港に戻る漁船を出迎えたい、と思ったのです。
わたしがはじめて請戸地区に足を踏み入れたのは、2011年4月21日、東京電力福島第1原子力発電所から半径20キロ圏内が「警戒区域」として閉ざされる前日のことでした。
暗闇のなか請戸港に向かって歩くと、真夜中なのに海鳥の鳴き声がして怖かったのを覚えています。わたしは道の真ん中に横倒しになっていた家の前で合掌をしました。
浪江町に襲来した津波は15メートル。請戸地区では350戸が流され、125人の方が命を落とし、現在も29人の方が行方不明のままです。
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3月11日、余震が続き、川が増水しているなか、地元の警察や消防や町役場の方々は、必死の救助活動を行っていました。
二次被害の危険があるため、夜10時半に救助隊はいったん引き揚げます。倒壊した家屋が折り重なっている辺りからは、助けを求める人の声が聞こえたといいます。
「明日、助けにくるから、がんばれ!」と励ましの声を掛けたという方もいらっしゃいます。
しかし、翌朝5時44分に、原発から10キロ圏内の避難が指示されたために、全町民は浪江町から避難せざるを得なくなります。
倒壊した家屋の隙間や屋根の上や車の中や水や泥の中で、避難を待ちながら衰弱していった方々の絶望、ご遺族の無念、救助隊の自責の念を思うと、胸がつぶれそうになります。
行方不明者の捜索が再開されたのは、1ヵ月後です。ご遺体の損傷は激しく、6日間で発見された74体のうち、身元が判明したのは数人だけで、ほとんどのご遺体は身元不明のまま荼毘に付されました。
請戸漁港の津波で破壊された岸壁の復旧工事はほぼ終わっていましたが、魚港へと向かう道のガードレールは津波の水圧で曲がったままで、請戸地区の共同墓地の墓石は倒れたままです。1階や2階が津波で突き抜けた家屋もところどころに残っています。
震災から6年という歳月が感じられる風景ではありません。
空は青く晴れ渡り、海は穏やかでした。岸壁では、船員の家族と思われるお年寄りや赤ちゃんを抱いた若い女性、浪江町の職員や復旧工事の関係者、カメラを構えるマスコミの人々が、船の到着を待ち構えていました。
風がにわかに強くなり、「浪江町請戸港」の白い旗がはためき、そのはためきに呼応するように、色鮮やかな大漁旗をはためかせて26隻の漁船が白い航跡を引きながら請戸漁港に入ってきました。
それは、やはり、喜びが静かにあふれる、奇跡のように美しい瞬間でした。
(ゆう・みり作家 写真も筆者)
(「しんぶん」赤旗2017年2月27日より転載)