東京電力福島第2原発(福島県楢葉町、富岡町)の1~4号機が立地する楢葉町の全町避難が2015年9月5日に解除されて約1年半。町が帰還者としている、週4日以上、町に滞在する人は1割を超えたところです。「帰りたい気持ちはあるが、帰れない」という2人に話を聞きました。(いずれも仮名)
職場は廃業・・友も離れて
小山玲子さん(61)=いわき市の仮設住宅で母、娘、孫と同居
楢葉町ではアパート住まいで帰らなければいけない家があるわけではない。働いていた弁当店も廃業しているし、友だちも避難したままだし、帰っても何の張り合いもないでしょ。楢葉に帰るということにはなりません。
原発事故が起きた時、孫が生まれて16日目でね。今年、小学校に上がります。小・中学校が終わるまでは転校させたくない。仮設住宅は学校にも、買い物するにも近いし、〝住めば都″。音漏れはするけれど「子どもだからしかたないよ」ってお隣さんも言ってくれる。仮設住宅は原則、来年3月までと決まっているので、これからどうしようかとは思っています。
原発事故当初、避難で転々とした時は、周りに話せる人はいないし、家族みんなで一部屋で寝起きして、料理していても、イライラしてきて手が震えてくるの。そういう時は外に出てね。遠くを眺めたりして、気を落ち着けました。
楢葉は生まれ育ったところで、月に1回くらいは友だちと旅行したり、ちょくちょく飲みにいったりして楽しかった。だから、楢葉はあこがれ、「よかったな」っていう気持ちは今もあります。
田んぼ行き農業したい
山田町子さん(75)=いわき市の仮設住宅で独居
楢葉では3世代5人で住んでいました。東日本大震災当日、3月11日は国勢調査員の研修で東京にいました。ビルがぐらぐら揺れて怖かった。
農業が好きでね、秋に収穫して親戚に送ったり、友だちに配ったりするのが楽しみだった。みんな喜んでくれてね。スキーとマラソンも好き。近くの山はみんな登った。原発事故前の3月4日から6日まで友だちと8人でサイパンのマラソン大会に行ったり…。
避難してね。糖尿病のインスリンが手に入らなくなって人院した。避難で農業できないから、筋肉が落ちてね。その上、視力が落ちて、記者さんの名刺も読めない。車の運転もできない。今はだるまさんだよ。農業やっていた時は、夏なら朝4時には田んぼに行っていたのになあ。
仕事の関係で嫁と子どもは県の公社、息子は単身赴任、家族もばらばらになってしまいました。
マンションみたいな災害公営住宅でなくて、長屋みたいな、グループホームみたいな公営住宅をつくってくれたら、楢葉に帰れないかな。帰りたいな。自転車乗って、田んぼいって、農業できないかなと思っています。
教育と農業力入れる・・松本幸英町長
4月を本格的復興期の開始と位置付けてきました。診療所はすでに再開し、春に小中学校と、それ以下の子どものための施設を町でスタートさせるなど、施策を進めていますが、避難解除から約1年半で帰還した町民は1割を超えたところ。帰還は中長期的な課題です。
教育と、町の基幹産業である農業対策に力を入れたい。農産物から基準値を超える放射性物質は出ていませんが、風評被害克服には時開がかかるし、帰還している人も少ないので、農業は10分の1、20分の1からのスタートです。
東日本大震災と原発事故で全町避難になったわけで、福島第2原発についても再稼働はありえません。町でも県議会でもいっているように廃炉にする方向でしょう。
(「しんぶん」赤旗2017年2月21日より転載)