10月17日に、福島県双葉郡大熊町の「中間貯蔵施設」予定地を歩きました。
案内をしてくださったのは、大熊町の郷土史家の鎌田清衛さん(74際)でした。
⌘ ⌘
大熊町は原発事故の被害を受けながら、原発以外なにもない場所だった、事故以前は原発に依存していたと蔑(さげす)まれ、事故後は高額の補償金で潤っていると妬(ねた)まれたりもしています。つまり、原発とお金というレッテルを貼り、その下に在るものを見ようとしない人が多いのです。
鎌田さんは、果樹農家でした。50年の長きにわたって、大熊町で梨を作り続けていました。有機栽培にこだわり、いちばん美味しい頃合いで食べてほしいから、と小売店に棚置きすることを避け、口コミでの販売に限定していました。
一つでも多く売るための戦略はあえて考えず、「今まで食べた梨の中で一番おいしい」と言ってもらえることだけを目指して、50年間血のにじむような努力をつづけてきたからこそ、原発が爆発して梨畑に放射能が降り注いだ瞬間、「終わった」と思ったそうです。
鎌田さんは現在福島県須賀川市で避難生活を送っています。梨は、作っていません。
鎌田さんのご自宅と果樹農園がある小入野(こいりの)という地区は、東京電力福島第1原子力発電所から3キロ地点に位置し「帰還困難地域」に指定されています。
鎌田さんは、「中間貯蔵施設」予定地の地権者ですが、国との土地売買の交渉に現時点では応じていません。地元の方々が大切に守り続けた墓所と神社を保全することを交渉の条件にしているからです。
「それを伝えたら、先方から連絡が途絶えたんです。きっと、面倒くさい奴だから後回しにしようってことなんでしょうね」
わたしたちは鎌田さんのお話を聴きながら、海渡神社の社殿前に立ちました。
「一年のうちのたった二度だけ、春分の日と秋分の日に、ここから日隠山の山頂にお日様が沈むのが見えるんです。30代の頃から日隠山の名の由来を考え始め、60歳の時にようやく突き止めたんですよ」
⌘ ⌘
同行した、東北大学文学部長である佐藤弘夫教授(神仏習合、霊場、国家と宗教の専門家)は、地震でうつ伏せに倒れたままの古い板碑の表をのぞこうとして腰をかがめました。
「梵字が彫ってあるとしたら、中世に作られた板碑でしょう。おそらく、明治期に神社になる前は、寺院だけだと思われます。中世から、もしかしたらもっと前から、ここに暮らす人たちにとって重要な場所だったんでしょうね。大熊町の原発の歴史は、立地から廃炉まで含めても百年。千年続いていたものを壊していいはずがありません」と佐藤さんはおっしゃいました。
「お金の問題ではないんです。中間貯蔵施設になる地域住民の気持ちは、同じ大熊町民でも、地域外の人にはわからないと思いますよ」と、鎌田さんは日隠山を仰ぎ見ました。
(ゆう・みり 作家 写真の筆者)
(月1回掲載)
(「しんぶん赤旗」2016年10月31日より転載)