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“福島に生きる”母子避難の実態示す・・原発賠償関西訴訟 原告団代表 森松明希子さん(42)

生業訴訟の集会で連帯あいさつする森松明希子さん=福島地裁前
生業訴訟の集会で連帯あいさつする森松明希子さん=福島地裁前

 「事実が隠され続けた5年半でした。避難は間違いでなかった」と原発賠償関西訴訟原告団の森松明希子代表(42)はいいます。

■収束とは程遠く

 東京電力福島第1原発事故による放射能汚染地域が同心円ではなく風向きによって拡散することや、事故の原因さえ解明されていないうちからの「収束宣言」、多くの住民が事実を知らないまま避難生活を続けました。

 汚染水が漏れ続け、収束とは程遠く、現実とかけ離れている国の対応に、2013年9月、関西に避難する27世帯80人で国と東電に損害賠償を求めて大阪地裁に提訴しました。

 「多くの福島県民が県外に避難しているという社会的事実を真摯(しんし)に受け止めて避難先でも基本的で最低限度の生活が守られるようにしてもらいたい」というのが提訴の動機でした。

 森松さんの家族は、夫と子ども2人の4人が原告になりました。

 「原発事故で母子避難がなかったことにされたくありません。私たち家族の存在が事実です。裁判をすることで記録が残ります。事実を明るみに出して今後の教訓にしたい」

 東日本大震災が起きた11年3月11日、家族は福島県郡山市に住んでいました。当時、長男は3歳1カ月、長女は生後5カ月でした。

 マンションの給水タンクが壊れ、家中が浸水し、家財道具も全てだめに。着の身着のまま避難所へ。当初は、郡山で生活を再建しようと考え、夫の勤務先の病院で避難所暮らしをしました。

■極限のストレス

 13年4月。長男が入園した幼稚園では原発事故前は半袖に短パンの制服でしたが、園は、長袖・長ズボンに上着を着用するよう指示。子ども用マスクの束が配布され、園庭での保育は禁止、屋内での保育になりました。子どものストレスは極限に達しました。

 5月になって、夫からゴールデンウイークの10日ほど関西に母子だけ行く短期避難を提案されました。

 兵庫県伊丹市生まれの森松さん。大阪市の被災者支援窓口に問い合わせ、交通局の官舎に入居ができました。

 大阪でテレビニュースを見ると、福島原発事故による放射能汚染がいかに深刻かと報道され、「福島は深刻な事態に至っていることが理解できました。

乳児を福島で育てるべきでない」と直感的に思いました。

 夫が月1度、家族に会いに大阪に来るという母子だけの家族バラバラの生活です。

 「福島に残れば、目に見えない放射能の恐怖におびえ、出たら出たで、不安定な生活、家族バラバラの日常を強いられています」

 5年5カ月経過したいまも放射能被ばくに対して脆弱(ぜいじゃく)な子どもたちを福島に戻せる環境にはありません。

 「避難を続ける人々への支援を打ち切ることは避難の選択を否定し、帰還を強要することに等しい。避難した人にもとどまる人にも適切な施策を実施するべきです」

 森松さんたちは、福島をついの住み家とするつもりでした。

 「ふつうに暮らす人々の平穏な生活を奪い、これだけの苦難を強いてなお、原因究明も決着もしていないというのに原発再稼働するなどは正気の沙汰とは思えません。国の政策は、避難者や被害者を消そうとしていることにほかなりません」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2016年8月29日より転載)