7月24日、「火の祭」が復活しました。
原発事故によって南相馬市小高区全域が避難区域に指定されたため、6年ものあいだ中断を余儀なくされていたのです。
わたしたち家族は、ガードレール前の縁石に並んで腰を下ろし、息子が露店で買ってきてくれたタコ焼きを食べたり、夕景を眺めたりしながら、日が落ち切るのを待ちました。
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2千のかがり火が土手沿いに点々と灯され、4千発の花火が次々に打ち上げられました。夢中になって写真を撮っているうちに、時が経つのを忘れてしまいました。
ヤバイよ、と夫に時計を見せられ、あ!と叫び声を上げました。8時10分。常磐線の終電は8時20分なのです。
わたしと夫は走ったのですが、走るのが苦手な息子は早足が精いっぱいのようで、結局間に合いませんでした。
小高駅から原ノ町駅までの13キロを歩いて帰る事態に陥りました。最初の30分ぐらいは、花火帰りの車のヘッドライトやテールランプで明るかったのですが、やがて車は流れ、途絶え、真っ暗になりました。街灯も歩道もない道です。たまに通る車は高速道路並みのスピードを出しています。はねられないように携帯電話の液晶画面をかざしながら歩きました。
1時間10分歩いて9時35分、ちょうど旧「警戒区域」を抜けた辺りでした。
1台の車がわたしたちを追い抜いて停まり、助手席から息子の親友であるHくんが現れました。運転していたのは、Hくんのお祖母様でした。
息子は歩きながらHくんにメールをして助けを求めたのでしょう。
徒歩だとあと1時間半はゆうにかかる道のりを、車で送っていただき、15分で帰宅することができました。
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わたしは、16歳の息子が、困った時に気兼ねなく助けを求められる性格と、そのSOSを受信してくれる友だちを持っているということに胸打たれました。
息子が生後3ヵ月の時にがんでこの世を去った伴侶は、こんなことを言っていました。
「赤ちゃんに何をしてあげられるだろうかと考えている。ぼくには恐ろしいほど時間がない。死ぬ前に3人の名前と連絡先を書いた紙を残そうと思う。その3人は、赤ちゃんの身に何か困ったことが起きた時に連絡すると、ぼくの代わりに助けてくれる」
わたしは亡き人に語り掛けました。あの赤ちゃんが、1年半前に転居した時には一人の友だちもいなかった南相馬で、友情と信頼という根を張っているよ、と——。
花火が上がらなかった6年間、わたしたち家族がこの地で暮らした1年半、伴侶の死後流れた16年間、息子が育った16年間を経て、今ここに在る、一つ一つの関係や、一つ一つの瞬間が炎の彩りを帯びたように感じられた「火の祭」の夜でした。
(ゆう・みり 作家 写真も筆者)
(月1回掲載)
(「しんぶん赤旗」2016年8月29日より転載)