福島県浪江町津島地区の住民が起こした「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」。原告の一人、佐々木やす子さん(61)は「長かった5年間でした」と振り返ります。
佐々木さんにとって東京電力福島第1原発事故のあった2011年は波乱に満ちた1年間でした。
新年2日の夜、正月休みを津島で過ごしていた次男を千葉県習志野市まで送っていきました。ところがその後に次男の具合が急に悪くなり救急搬送される事態が起きました。
病院に向かうと主治医から悪性のがんだと告げられました。「とても深刻な状態」といわれ、「数時間前まで元気だったのに悪い夢をみているようでした」。佐々木さんは病院に泊まりこみ、付き添いました。
悪いことは続きました。2月18日、長いこと病気だった夫が突然吐血し、自宅で亡くなりました。
■ショックが大
次男には夫の死は隠すことにしました。「ショックが大きすぎる」という主治医の判断でした。部落の人たちが葬儀を取り仕切ってくれ、津島の墓に納骨も済ませることができました。
次男が入院している病院に戻ると、何か異変を感じ取ったのか、次男からは質問ぜめにあいました。
隠し通すことができずに、主治医に立ち会ってもらい「お父さんが亡くなったんだよ。黙って帰ってごめんね」と夫の死を告げました。そして、3月11日の原発事故。
次男は、病気とたたかっているときも「津島に帰りたい」と言い続けました。「お父さんの墓参りをしたい」という次男の思いは強くなりました。懸命の努力で5月の連休には外泊許可が下りましたが、放射能の線量が高くて行けません。
「お母さん、津島にはいつ帰れるの。お父さんのお墓まで歩けるかな。早く帰りたいなあ」という次男に、「津島には原発事故で立ち入りができないから帰れないんだよ」。佐々木さんはこう答えるのがやっとでした。
8月11日、次男は亡くなりました。21歳でした。「くやしい」
横浜市出身の佐々木さん。夫と結婚して福島で暮らすようになりました。結婚当初は、都会と地方との違いに戸惑いました。
テレビは2局しか映りませんでした。有線電話で、個別加入の電話はありませんでした。公衆電話のある駅まで出かけて、かけていました。「カルチャーショックでした」
不便さを超える自然豊かな環境は、佐々木さんにとって第二の古里となりました。アユやイワナの取れる川。キノコや山菜の採れる山。包み隠しなく相談できる近所の人たち。義理の親の病気のときも隣人は病院まで連れて行ってくれました。
原発事故は家族をバラバラにしました。賠償金をめぐり不協和音が起きました。地域のコミュニティーもバラバラにしました。
■津島に帰りたい
福島県安達郡大玉村に家を建てて避難している佐々木さんは「ここは仮の家です。夫と次男の眠る津島に安心して帰りたい。部落の人たちと一緒に暮らす穏やかな生活を返してほしい。お墓を守っていきます」。
原発再稼働を進める安倍内閣。佐々木さんは言います。「福島の教訓が生かされていません。原発が稼働すれば不安を抱えていかなければなりません。電力は間に合っているのだから再稼働には反対です」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年8月14日より転載)