日本共産党嶺南地区委員会 > しんぶん赤旗 > “福島に生きる”普通の暮らしが一番・・浪江町請戸に住んでいた 菅野美智子さん(54)

“福島に生きる”普通の暮らしが一番・・浪江町請戸に住んでいた 菅野美智子さん(54)

 「助かる命はあった」と語る菅野美智子さん
「助かる命はあった」と語る菅野美智子さん

 福島県浪江町請戸に住んでいた菅野(かんの)美智子さん(54)は「3・11」

からの5年間を「過酷でした。乗り越えられたのは人の温かさでした」と、言います。

 大地震が起き、津波が迫ってきました。親戚と2台の車で避難。しかし、3匹の愛犬は、乗せられませんでした。バックミラーには懸命に追いかけてくる犬たちの姿。避難する車列は切れ目が無く止めることができません。見失いました。

■愛犬救助できず

 捜索が始まったのは1カ月後の4月14日。大震災直後ならば、大津波から逃れた生存被災者たちやペットたちは、救助できた可能性がありました。ところが、原発事故の放射能で「二次災害になるから」と、請戸地区への立ち入りは禁止されて、救助活動もできなくなりました。

 美智子さんの夫は、東京電力福島第1原発で40年以上働いてきました。事故後に東電構内に集められ、午後4時すぎには、現地解散となり帰宅させられました。

 妻たちの安否確認のため自宅のある請戸に向かいますが、立ち入り禁止。避難先と伝えられた浪江町津島公民館や体育館などを捜し回りました。3月12日夕方、美智子さんの名がアナウンスされ、夫妻は再会できました。

 美智子さんは言います。「請戸には仮の追悼碑しかありません。5年が過さてもきちんとした碑がない。立ち入り制限で建てられないのです。5人の親戚が行方不明となり亡くなりました。碑がなく、手を合わすこともできないでいます」

 美智子さん夫妻は、浪江町津島、福島市、東京都、山梨県、埼玉県、大分県、福島県いわき市など14力所の避難先を転々としました。

■食い止める使命

 美智子さんは大分県生まれ。結婚して福島県に移り住んで17年になります。

 「請戸は″心の故郷″です。死ぬまで暮らしていたかった。目を閉じると青い海、潮騒の音が聞こえてきます。自然豊かな土と水。海の幸、山の幸に恵まれて、川にはサケが上ります。普通の暮らしが一番です」

 夫は、2011年11月から16年5月まで福島第1原発で働き、放射能の拡散を食い止めるために「自分たちがやるしかない」と頑張りました。

 「原発事故が起きて職人がいなくなった。安全・安心と言われて働いてきた。信じられないことが起きて、私たちには被害を食い止める使命がある」と語ります。

 「農業をしながら原発で働いてきた。コメを買ったことは一度もなかった」と言う美智子さんの夫。

 「避難生活の中で初めておコメを買いました。涙がこぼれました。自分が作ったおコメが一番おいしい」

 原発労働者として危惧します。「原発は一度事故を起こすと取り返しがつきません。国は再稼働に踏みだしました。5年も過ぎてまだ隠蔽(いんぺい)が続いています。あきれて言う言葉がない。本当に安全なのか。人間が造ったものには限りがあります」と。

 美智子さんは言います。「たくさんの人が苫しんでいます。廃炉にすべきです。請戸に帰りたいができない。裁判長は現地を見てほしい。見ないで判決は書かないでほしい」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2016年7月5日より転載)