大阪府貝塚市から父親の転勤で福島県に引っ越してきて40年が過ぎた渡邉弘子さん(62)は「本当の故郷福島に戻してほしい」と思っています。
■放射能に汚され
楢葉町の天神岬の海に向かう真っすぐな一本道。夜、潮騒の音が聞こえます。キラメク星空。同町からいわき市に避難している渡邉さんにとって放射能に汚された故郷は、どこかが5年前と違っていると感じています。
楢葉町は昨年9月全町が帰還できることになりました。しかし、実際に町に戻ったのは273世帯、473人(4月4日現在)にすぎません。
渡邉さんも今すぐには戻る予定はありません。「町には人が暮らしている実感がないです。夜、家に明かりがついていて、『帰ろうかなぁ〜』と思える町になってほしい」と願っています。
5年前「3・11当時、渡邉さんは楢葉町の小学校の給食調理員をしていました。生徒たちの昼食は終わり、後片付けをしていたときのことです。経験したことのない激しい揺れは、大型冷蔵車が走り、食器類は飛び散りました。子どもたちと一緒に校庭に避難し、揺れが収まるのを待ちました。
全町の避難指示は仕事を失うことになりました。「子どもたちがおいしそうに食べてくれる顔を見ることができて、やりがいのある仕事でした」と、残念がります。
楢葉町から着の身着のまま、いわき市に住んでいた母親の家に避難しました。その後、いわき市のアパートに移るなど3カ所避難しました。
■安全神話信じた
息子のPTAの役員やママさんバレーなど地域活動をしてきた渡邉さん。東京電力が招待する原発見学会に参加するなど「安全神話」を心底信じていました。
それだけにテレビに映し出された福島第1原発の水素爆発の様子には「目の前が真っ暗になり、すごいショックをうけました」。
アパート暮らしは戸建ての楢葉町での生活とは違い、ストレスのたまる生活でした。人目が気になりました。2階の生活音がうるさく、苦痛で耐えられませんでした。
楢葉町で培った地域の濃厚なコミュニティーはバラバラになってしまいました。
亡くなった父親は、大阪から福島に引っ越してくるときに「原発が近くで大丈夫かな?」と母親に語っていたそうです。そのことを思い出した母親は、「心配が現実となった」と寂しそうに話していました。
原発事故から5年が過ぎて「これからどうなるのだろう」という漠然とした不安感は今も続いています。「ついの住まいと心から思える家も定まらず、中途半端で心配。気力・体力も無くなってきて悠長には待ってはいられない」。そんな気持ちが「一緒に声を上げないと力にならない」と、楢葉町、浪江町、南相馬市などの避難者が原告になって東京電力に損害賠償を求めた「避難者訴訟」(早川篤雄原告団長)の原告になることを決断しました。
「東京電力って謝らないよね」と楢葉町の仲間たちは思っていました。渡邉さんは「うちの(東電の)責任でした」と法的責任を認めさせて謝罪させたいと願っています。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年5月8日より転載)